第168話「ガンジーでも助走つけて殴るレベル」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、不可能を可能にしようとする者たちが集まっている。そして日々、トンネル効果で人間が壁をすり抜けられないか、試行錯誤を続けている。
かくいう僕も、そういった可能性を信じ続ける系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、起こり得ないことに期待をかける面々の文芸部にも、地に足の着いた人が一人だけいます。トンネル効果でおにゃのこが降ってくる世界で、そんなことは起こりませんと主張する真面目さん。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、ととととと、と駆けてきて、僕の横にちょこんと座った。その拍子に、先輩は体を傾かせて僕に激突する。僕は、そんな先輩の体を受け止め、ちゃんとした姿勢に戻してあげる。先輩は、ありがとうといった様子で、恥ずかしそうに頬を染める。僕はそんな先輩の可愛らしさを愛でながら、声を返した。
「どうしたのですか、先輩。知らないフレーズを、ネットで見つけましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの達人よね?」
「ええ。江崎玲於奈が、トンネル効果を発見して、思わずノーベル賞を受賞してしまうぐらいに、ネットのトンネル的抜け穴を知りつくしています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、部屋で一人で推敲するためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、並行世界的な無数の意見を目にした。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。
「ガンジーでも助走つけて殴るレベル、って何?」
おっと。今日は、ネット慣用句的なフレーズが来たぞ。あの、マハトマ・ガンジー、本名はモーハンダース・カラムチャンド・ガーンディーの名前が付いた言葉だから、安心安全、何の罠もない非暴力的な内容だ。
さすがにこの言葉で、危機に陥ることはないだろう。僕は大船に乗った気持ちで、楓先輩に顔を向ける。
「楓先輩。マハトマ・ガンジーという人物を知っていますか?」
「知っているよ。インド独立の父でしょう。確か、マハトマというのは、『ギーターンジャリ』でノーベル文学賞を受賞した詩聖、ラビンドラナート・タゴールに贈られた、偉大なる魂、偉大なる聖人という意味の言葉よね。ガンジーは、非暴力、非服従で革命を起こしたことで有名な、歴史上の偉人だったはずよ」
さすが、楓先輩。こういったことはよく知っている。
「そうです。そのガンジーが助走をつけて殴るという状況は、どう思いますか?」
「そんなことは、さすがにないんじゃないの? あの非暴力のガンジーさんが、そんなことをするとは思えないもの」
「そうです。その通りです。楓先輩の台詞はもっともです。あり得ない。そうですよね?」
「うん。そう思うよ」
「ガンジーでも助走つけて殴るレベル、というのは、今楓先輩が言った通り、常識的に考えて、あり得ない行動や状況などを指す言葉です。このフレーズは、二〇一〇年にネット掲示板で生まれて、そのあまりにも秀逸な言い回しから、神フレーズとして定着したものです。
ネット掲示板では、この言葉に影響を受けて、似たような言い回しを作る遊びが、時折おこなわれます」
「へー、どういった言い回しがあるの?」
先輩は興味を持ったようで、僕に体をぴたりと付けて尋ねる。僕は、役得だなあと思いながら、先輩の疑問に答える。
「そうですね。大量にあるのですが、その中からいくつかを選んで例として挙げてみましょう。『安西先生すら諦めるレベル』『テレ東が緊急ニュース流すレベル』『松崎しげるの顔面も蒼白になるレベル』とかでしょうか」
先輩は、きょとんとした顔をする。
し、しまった。この手のガンジー系フレーズは、基本的にネタの塊でできている。そのため、それぞれの言葉の背景を知らなければ、どのように、あり得ないのかまったく分からない。
どうする。解説するか? でも、そんなことをすると、お笑い芸人が、自分のネタがなぜ笑えるのかを一生懸命説明するようなものだ。痛い。痛すぎる。何というか、これは苦行だ。僕は、そう思いながら、楓先輩の様子を窺う。
ねえねえ、サカキくん、早く教えてよ。
先輩の表情は、好奇心でうきうきしている感じだ。
まっ、まぶしすぎる。これは、フェイスフラッシュだ。僕のどぶ川のような心も、思わず清流になってしまうレベルだ。僕は仕方なく、先ほど挙げた三つの例の解説をすることにした。
「安西先生というのは、『SLAM DUNK』というバスケマンガの登場人物です。彼は『あきらめたらそこで試合終了だよ』というフレーズで有名です。そのため、『安西先生すら諦めるレベル』となると、『あの名言を言った安西先生すら諦めるだって? あり得ない事態だよ』といった意味になるのです」
「へー、その安西先生って人は、随分前向きな人なのね」
「ええ。そうです」
「じゃあ、次の『テレ東が緊急ニュース流すレベル』というのは?」
「テレ東というのは、テレビ東京の略です。このテレビ局には、テレ東伝説というものがあり、ネットではよく知られています。
テレビ東京は、重大事件や事故があっても、番組編成を変えない、独立独歩の姿勢で有名なのです。そのテレ東が、普段の慣例を破って、緊急ニュースを流す。それはあり得ない。そういった意味になります」
「なるほど。常識を打ち破る出来事というわけなのね。じゃあ最後の『松崎しげるの顔面も蒼白になるレベル』というのは、どういった意味になるの?」
「松崎しげるという人は、歌手や俳優をしている人です。この人は、日焼けした肌がトレードマークです。ネットでは、黒さの基準や、黒さを表す単位として使われたりします。その、黒い顔の松崎しげるが、顔面蒼白になるのはあり得ない。そういった、起こり得ない状況を指す意味になります」
「その松崎しげるという人は、そんなに黒いの?」
「黒いです。ネットでは、黒色の代名詞としても使われます」
「分かったわ。『安西先生すら諦めるレベル』『テレ東が緊急ニュース流すレベル』『松崎しげるの顔面も蒼白になるレベル』こんな感じで、フレーズを作ればいいのね!」
楓先輩は、やる気満々な様子で、声を出した。
どうやら、先輩は、自分も「ガンジーでも助走つけて殴るレベル」系の言葉を作ってみたいらしい。多くのネット民が試みる遊びなので、楓先輩がチャレンジしてみたくなるのも分かる。
「じゃあ、先輩。何かフレーズを作ってみてください。僕が批評しますよ」
「そうね。何がいいかしら」
先輩は、人差し指を口元に当て、斜め上を見ながら考える。
「サカキくんが、テストで満点を取るレベル」
ぐはっ! いきなり、精神攻撃が来た。僕は、無防備な心に、正拳突きを入れられた状態になり、思わず吐血しそうになる。
「えー、楓先輩。僕だって百点を取るかもしれませんよ」
「えっ、サカキくん。テストで百点を取ったことがあるの?」
僕は押し黙る。少なくとも、中学生に上がってからは、取ったことがない。
「それじゃあ、次ね。サカキくんが、ネットで健全なサイトを見るレベル」
ぶふっ! それじゃあ、まるで僕が、不健全なサイトしか見ていないじゃないですか。
「えー、楓先輩。僕だって、健全なサイトを見るかもしれませんよ」
「えっ、サカキくん。健全なサイトを利用しているの?」
僕は押し黙る。あまり胸を張って言えないような気がする。
「それじゃあ、次ね。サカキくんが、ダイエットのために運動を始めるレベル」
も、もういいです。なぜ、例が僕のことばかりなのでしょうか? これは、好意的に解釈して、楓先輩が僕のことばかりを考えているということなのでしょうか。
僕は、涙目になって、僕以外で例を作ってくださいと、先輩に懇願した。
それから三日ほど、楓先輩は、様々なあり得ないフレーズを連発した。
「サカキくんのパソコンのモニターに、女の子の画像が表示されないレベル」
「サカキくんのスマートフォンの壁紙が、女の子のキャラクターでないレベル」
「サカキくんの文房具に、女の子のキャラクターが一つも描かれていないレベル」
ふげ~~。僕以外で例を作ってくださいと頼んだら、僕の周辺物で作られるとは!
うううっ。先輩の、僕への執着に絶望した! 僕は、先輩が例を挙げるたびに、精神力をゴリゴリと削られていった。