雲居 残月 の 小説道場

主に「小説家になろう」で書いた話を中心に、小説投稿をおこなっていきます。

第160話「薄い本」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』

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 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、幸薄い人生を歩む者たちが集まっている。そして日々、様々な地雷を踏みつつ暮らしている。
 かくいう僕も、そういった墓穴を掘る系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。

 そんな、かつお節ぐらいに幸が薄い面々の文芸部にも、辞書ほどに分厚い幸福を持つ人が一人だけいます。「ダイ・ハード」の、マクレーン刑事で満席になった飛行機に乗り合わせた、強運の少女。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。

「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」

 間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、軽やかに歩いてきて、僕の横に座った。先輩は、足をきちっと閉じて、その上にお行儀よく両手を載せている。僕がその様子を眺めると、顔を上げて、ぱあっと明るい顔を見せてくれた。ああ、先輩は、清楚さと、礼儀正しさと、可愛らしさがすべて備わった完璧超人だ。そんな楓先輩の姿を見ながら、僕は笑顔で声を返した。

「どうしたのですか、先輩。知らない言葉が、ネットにあったのですか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの達人よね?」
「ええ。すべての攻撃を紙一重でかわす武術家のように、ネットの誹謗中傷を華麗にスルーする技を持っています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」

 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、じっくりと腰を据えて書くためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、印刷不可能なボリュームの文章を発見した。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。

「薄い本って何?」

 本好きの先輩は、それがどういった本なのか、興味があるのだろう。目をきらきらとさせながら尋ねてきた。
 うっ、すみません。それは、オタク界隈の隠語です。ネットでも、夏や冬が近付くとよく見かける言葉だから、おそらく不思議に思ったのでしょう。
 薄い本とは、同人誌のことです。それも、狭い意味での成年向け同人誌を指す用語です。もっと分かりやすい言い方をすると、エロ同人誌です。しかし、そんなことを、清純派の楓先輩に言うことはできない。

 いったい、どうすればよいのか。僕は散々考えた末に、なぜそれらの本が薄くなるのかという話題から、攻めていくことに決めた。

「楓先輩。原価という言葉をご存じでしょうか?」
「知っているよ。仕入れの値段や、製造費を指す言葉よね」

「そうです。商売では、売り上げから原価を引いた金額が利益になります。薄い本と呼ばれる、ある種類の本が実際に薄いのは、その原価が関係しているのです」
「今日は経済の話? サカキくん。薄い本というものを理解するには、ビジネスの仕組みを理解する必要があるのね」

「ええ。薄い本について理解するためには、お金にまつわる話を知らなければならないのです。なぜならば、薄い本は、とあるマーケットで流通しているものだからです」

 僕は、真面目な顔で、楓先輩に告げる。先輩は、「よし、がんばって勉強するぞ!」といった顔で、僕を見ている。
 うっ、辛い。先輩は、卑猥な同人誌について、僕が語っているとは知らない。きっと真面目な本のことを聞いていると、思っているはずだ。僕はプレッシャーで、お小水をちびりそうになる。

「通常、書店に並ぶ本は、数千冊、数万冊といった単位で印刷をおこないます。こういった単位で印刷がおこなわれるのには、理由があります。その理由を、コストの面から説明します。

 印刷では、一度に印刷する冊数が多いほど、一冊当たりの印刷コストが下がります。たとえば、千冊刷る際の一冊当たりの単価が百円だったとします。これが、一万冊だと五十円に下がったりします。そのため、売れることが分かっていれば、たくさん印刷した方がよいということになります。
 ただし、売れ残ると、印刷代が無駄になり、倉庫代もかさむので、無駄に多く刷るのは危険です。

 では、なぜ単価が下がるかというと、何冊作ろうが、一定の固定費がかかるからです。人間が介在して作業をすれば、人件費がかかります。また、印刷では、印刷の元になる版を作製する必要があります。そういった固定費の部分は、一枚だけ印刷する場合も、一万枚印刷する場合も必ずかかります。
 一冊当たりの原価には、紙代やインク代、機械の使用料だけでなく、この固定費も足します。固定費を、印刷した冊数で割った金額を、加算するのです。印刷数が多くなれば、一冊当たりの固定費は小さくなります。そのため、多く刷るほど安くなるのです。

 これらのことから分かることは、印刷冊数が多いほど原価は安くなり、逆に印刷冊数が少ないほど、原価は高くなるということです」

 僕はそこで一区切りして、楓先輩の表情を窺う。一生懸命、頭の中でイメージをまとめているのだろう。何度か点頭したあと、先輩は口を開いた。

「つまり、儲けを出そうとすれば、なるべく多く一度に印刷して、原価を下げないといけないわけね」
「そうです」

「ということは、薄い本というのはもしかして、発行部数が少ないから、原価がかかっている本なの? 一冊当たりの原価が高いから、ページを減らさざるを得ないとか」
「鋭いです。さすが、楓先輩です! まさに、僕が今から説明しようとしていたことは、そのことなのです」

 僕は、驚いた顔をして告げた。先輩は僕の絶賛の台詞を聞き、喜びの表情を浮かべて顔を輝かせた。僕は、その先輩の反応に力を得て、薄い本についての説明を進めていく。

「薄い本というのは、世の中に数があまり出ない、特定の本を指します。その多くは数百冊程度であり、オフセット印刷で作られます。
 数が少ないということは、当然原価が高く、そのためページ数も非常に限られることになります。そのため、少ない場合は十六ページ。多い場合も、数十ページ程度の本になります。そうしなければ、赤字になるからです。
 そういった原価上の制約があるために、薄い本と呼ばれる本は、見た目も薄い、ページ数の少ない本になっているのです」

 僕は、力を込めて、薄い本がなぜ薄いのかを語る。本当は、それだけの理由ではなく、一人で何百ページも書けないから薄いなど、様々な理由がある。しかし、経済的観点からゴリ押しする。先輩は、これで納得してくれるだろうか? 僕は、おそるおそる先輩の様子を窺う。

「それで、薄い本って、どんな本なの? 特定の本を指すということは、発行部数が少ない本を、必ず薄い本と呼ぶわけではないのよね。どういった本なのか、きちんと教えてちょうだい」

 うっ。ごまかされてくれなかった。当然といえば当然だ。発行部数が少ない本が、必ずしも薄い本というわけではない。それに、薄い本という言葉には、別の意味が隠されているのは、薄々分かっているのだろう。
 仕方がない。すべてを語るわけにはいかないが、危険なところ以外は話してしまおう。僕は、渋々といった様子で、さらに踏み込んだ説明をおこなう。

「楓先輩。世の中に、同人誌と呼ばれる本があることは、ご存じですよね?」
「知っているよ。文芸部員だもの。仲間内で作り、小部数だけ発行するものでしょう。うちでもたまに作るもの。あっ! もしかして、薄い本というのは、そういった同人誌と関係があるの?」

 先輩は、明るい顔をしながら尋ねる。

「そうです。同人誌は、昔からあるものです。たとえば、一八八五年に、尾崎紅葉、山田美妙などにより発足した、明治時代の文学結社である硯友社。そこでは、我楽多文庫と呼ばれる同人誌を出して、文壇に大きな影響を与えました。
 また、オタク界隈、特にSF業界で言えば、宇宙塵という同人誌を押さえておく必要があるでしょう。一九五七年に始まり半世紀ほど続き、二〇一三年に廃刊になった同誌は、著名作家が多く執筆しています。星新一小松左京筒井康隆梶尾真治夢枕獏山田正紀平井和正など、僕たち世代でも知っている作家が、名を連ねています。

 日本の同人文化は、世界に比類なきものであり、現在は多くの同人作家が、日々同人誌を作り続けています。そして、それらの本は、同人誌即売会や同人ショップで販売されています。その販売の場として最大のものは、夏と冬のコミックマーケットになります。
 このコミックマーケットは、参加サークル数約三万五千、入場者数約五十万人という大規模なものです。そこでは数々の同人誌が販売されているのです」

 僕の告げたコミケの規模の大きさに、楓先輩は目を開いて驚く。
 よし、この隙に、話を畳んでしまおう。エロの話だけはまずい。もしすれば、先輩に嫌われる。いつものパターンになってしまう。
 僕が急いで話を締めようとすると、その攻撃をインタラプトするようにして、先輩が声を出した。

「でも、同人誌がすべて薄い本というわけではないよね? それに、ネットを見ていると、薄い本という言葉には、何か別のニュアンスがあるみたいだし。その手の話に詳しいサカキくんだから、当然その内容も知っているよね?」

 楓先輩は、知的好奇心に満ちた目で尋ねてくる。
 に、逃げられない。時間と空間を超えて追いかけてくるティンダロスの猟犬のように、楓先輩は、僕の話術を巧みにくぐり抜けて、知識の追求を敢行してくる。
 仕方がない。ここまで来れば、運命と思い、諦めるしかない。僕は、天に身を任せる思いで、薄い本についての説明をおこなう。

「薄い本は、十八歳未満お断りの、同人誌のことを指します。先の説明の通り、同人誌は、総じて薄いことが多いのですが、その中でも特に、成年向け同人誌のことを、隠語として薄い本と呼ぶのです。

 オタク的同人活動の世界では、アニメなどのエロパロディーが多数出ます。そして、特定キャラの本も、大量に作られます。これらの本の数は、人気のバロメーターと見なされます。
 そういったことから、ヒット作を見たり、よいキャラに出会ったりした場合に、『夏に薄い本が出るな』『冬に薄い本が出るな』と、未来を予見した台詞を吐いたりします。この、夏、冬というのは、コミックマーケット、通称コミケのことです。コミケは、先ほど説明したように、世界最大の同人誌即売会になります。

 このように、薄い本とは、主にエロ同人誌を指す言葉なのです」

 僕は、説明を終えた。
 ああ、罪深きは僕のエロ知識。なぜ、中学生という身分の僕が、十八歳未満禁止の、禁断の知識を知っているのか? しかし、知っているものは仕方がない。だって、オタクなんだもの!
 僕は、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と頭の中で三回つぶやいたあと、楓先輩に顔を向けた。

「薄い本って、その、エ、エ、エッチな同人誌のことなの?」
「そうです」

「サカキくんも、そういった本を読んだりするの?」

 僕は背筋を伸ばして、遠い目をする。楓先輩は、なぜそんな質問をするのですか? 僕は、先輩相手に嘘を言いたくありません。イエス、ノーの二択問題を突き付けられたら、告白するしかないじゃないですか。

「イエス! イエス! イエス!」

 僕は力強く答えた。先輩は、変態さんを避けるようにして、僕から離れて、自分の席に戻った。僕は、絶望とともに机に突っ伏して、白い灰になった。

 それから三日ほど、先輩は僕のことを、変態さんとして避け続けた。そして、僕のことを「ウスイくん」と呼んだ。
 えー、僕の名前は、サカキです。ウスイではありません。どうやら、その呼び名は「薄い本を読むサカキくん」の略のようだった。うう、ひどい。三日経ち、先輩の告げる名前がサカキくんに戻った時、僕は心の底からほっとした。