雲居 残月 の 小説道場

主に「小説家になろう」で書いた話を中心に、小説投稿をおこなっていきます。

第110話「SAN値」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』

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 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、探究心豊かな者たちが集まっている。そして日々、知らなくてもよい情報を探索し続けている。
 かくいう僕も、そういった知識の収集者だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。

 そんな、怪しい世界に足を踏み入れた面々の文芸部にも、まともな精神世界に属している人が一人だけいます。邪神の教団に紛れ込んだ、純真な学者さん。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。

「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」

 間延びしたような声が聞こえて、僕は体を向けた。楓先輩は、ととととと、と歩いてきて、僕の横にちょこんと座る。そして眼鏡のレンズ越しに、僕を見上げてきた。その様子は愛らしく、目はきらきらと輝いている。先輩は僕のことを信頼してくれている。僕はうきうきした気分になり、先輩に声を返す。

「どうしたのですか、先輩。ネットで、初めて見る言葉があったのですか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットに造詣が深いわよね?」
「ええ。全にして一、一にして全なる者。ヨグ=ソトース並みの知識を有しています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」

 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、いつでも好きな時に書くためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、新しい文芸世界と接触した。そのせいでネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。

「SAN値って何?」

 イア、イア、ハスター! ハスター、クフアヤク、ブルグトム、ブグトラグルン、ブルグトム! アイ、アイ、ハスター
 僕は、思わず心の中で呪文を唱えてしまう。僕は未成年ですが、思わず黄金の蜂蜜酒を飲んでしまいそうですよ。楓先輩は、クトゥルフ神話の闇に、足を踏み入れましたか。僕は、暗黒世界に迷い込んだ楓先輩のために、道先案内人になることを決意する。

 そうです、楓先輩。僕と二人で、宇宙的恐怖の世界を歩みましょう!

 その時である。部室の一角から、高らかな笑い声が聞こえてきた。無貌の神。這い寄る混沌。ニャルラトテップのような、混沌好きのお方。この文芸部のご主人様、僕の天敵、三年生で部長の、城ヶ崎満子さんが、僕たちの許にやって来た。

 満子部長は、古い少女マンガに出てきそうな、お嬢様風のゴージャスな容姿をした人だ。しかし、この姿に騙されてはいけない。その中身は、気高くも真面目でもなく、エロに染まった品性下劣なものだからだ。
 満子部長が、そういった困った性格をしているのは、その出自のせいだ。満子部長は、父親がエロマンガ家で、母親がレディースコミック作家という、サラブレッドな家に生まれた。そういった家庭環境であるために、両親から受け継いだ、深遠にして膨大なるエロ知識を保有している。そして性格はSであり、僕をこの部室で、ちくちくといたぶるのを趣味としているのだ。

「SAN値がゼロの私が、話に加わってやろう!」
「絶賛発狂中ですか!」
「ふははははっ! サカキもどうせ、一桁ぐらいしかないだろう?」
「僕は、正気を保っていますよ!」

 満子部長の台詞に、思わず応酬してしまう。駄目だ。この人のペースに巻き込まれてはいけない。満子部長は、パンドラの箱のような人間だ。そんな相手と、まともに会話などしてはいけない。

「ねえ、サカキくん。それで、SAN値って何なの?」

 TRPG『クトゥルフの呼び声』を知らないであろう楓先輩に、どこから話すべきかと僕は考える。

「楓先輩は、クトゥルフ神話をご存じですか?」
「名前は聞いたことがあるわよ。詳しい内容は知らないけど」

 なるほど。それならば、基礎から話すべきだろう。

クトゥルフ神話は、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトというアメリカ人が中心になって創作を始めた、 架空の神話体系です。
 特徴としては、これまでのホラーに多かった、狼男や吸血鬼といった直接的に人間と対立する敵ではなく、人類より数段上の世界の者たち、つまり、人類誕生以前から存在する古い神や、宇宙的規模の生息圏を持った相手、次元を超越した存在などを、恐怖の対象として書いたことにあります。

 世界の真の姿は、人間の常識の範囲外にある。ラヴクラフトたちは、そういった恐怖を描いたのですね。このように、宇宙やその上の概念を扱うことから、クトゥルフ神話物は、コズミックホラーと呼ばれたりします」

「へー。そういった話なのね。アメリカ人ということは、キリスト教的世界観の人なのよね。その世界観の外側にある世界に、恐怖を感じたのかな。でも、それって一神教的感覚だと思うわ。世界の神話や宗教では、そういった高位の存在が、普通に描かれていたりするもの」

 僕は相槌を打ち、話を続ける。

クトゥルフ神話物が多くの人に受けた理由は、その独特のネーミングを中心とした世界観だと思います。
 クトゥルフ、アザトース、ヨグ=ソトース、ニャルラトテップ、ティンダロスの猟犬のように、耳慣れない名前が大量に出てきます。そして、当時としては珍しかった、魚やタコなどの海産物をモデルにした怪物が多数登場します。

 あとは、本人以外でもこの神話体系の話を書けるようにしたため、参入者が多かったことも要因でしょうね。現在の言葉で言うと、シェアワールドという奴です。登場人物や世界設定を、複数の人で共有可能にしたわけです」

 僕は、大まかな説明を楓先輩にする。クトゥルフ神話の普及については、ダーレス問題を避けて通ることはできない。しかし、初めてこの話題に触れる楓先輩には、混乱を招くだけなので割愛する。
 その時である。机の上に、ドンッと大量の本が置かれた。何だろうと思って振り向くと、満子部長が不敵な顔で立っていた。そして、自分が投下した本の、説明を始めた。

国書刊行会のドラキュラ叢書『ク・リトル・リトル神話集』に、同じく国書刊行会の『真ク・リトル・リトル神話大系』。創元推理文庫の『ラヴクラフト全集』に、青心社の暗黒神話大系シリーズ『クトゥルー』だ。それぞれ、数巻ずつあるから、一ヶ月ぐらいは耽溺できるぞ!」

 本の山を見せられたことで、楓先輩が、ふらふらと引き寄せられる。書痴の先輩は、僕への興味を失い、ラブクラフトとその一派に目がハートになっている。
 ぐっ。確かに、本好きの楓先輩ならば、罠にかかるようにして、はまる可能性がある。しかし僕は、楓先輩をみすみす奪われたりはしない。僕は、満子部長から楓先輩を取り戻すべく口を開いた。

「楓先輩。SAN値の説明に入ります!」
「そういえば、そうだったわね。クトゥルフ神話の話は分かったけど、それとSAN値という言葉は、どういった関係があるの?」

 よし! 先輩の心を取り戻した。
 満子部長が舌打ちをするのが見えた。悪いですが、楓先輩の心は、僕のものですよ。邪神の化身のような満子部長には渡しません。僕は、楓先輩の興味を引くように、激しい身振りを交えながら説明する。

「実は、クトゥルフ神話物は、『クトゥルフの呼び声』というゲームになっているのです。とはいえ、TVゲームではありません。紙と鉛筆とサイコロを使い、会話で進めていくテーブルトークRPGというジャンルのゲームです。そのゲームに出てくる能力値の一つがSAN値なのです」

 僕がそこまで説明すると、満子部長が、新たな品物を投下してきた。
 ドンッ!
 それは、ボックスに入った、古い『クトゥルフの呼び声』だった。今ではプレミア価格で、倍以上の値段になっている代物だ。満子部長が箱を開くと、大判の冊子三冊と、多彩な付属品が出てきた。その懐古趣味的な雰囲気に、楓先輩は、ふらふらと引き寄せられる。

 くそっ。満子部長は、どれだけ部費を浪費しているんだ! 僕は、楓先輩の意識を引き戻すために口を開く。

「SAN値の説明をおこないます!」
「そうだったわね。どういった能力なの?」

 先輩は僕に視線を戻す。よし! 僕は、勢いに乗って言葉を続ける。

「SANは英語のSanityの略です。正気、健全さを表す言葉で、SAN値は正気度とも呼ばれます。

クトゥルフの呼び声』は、クトゥルフ神話物の世界を扱うホラーゲームです。クトゥルフ神話物では、登場人物が宇宙的な恐怖に遭遇して、精神を破壊されてしまうこと多いです。
 そのため、このゲームでは、禁断の知識を得たり、危険な存在を見かけたり関わったりした場合、正気を保てたかどうか、SAN値を使って判定するのです。そして失敗すると、どんどんSAN値が、つまり正気度が失われていくのです。

 喪失の結果、SAN値がゼロになると、そのキャラクターは発狂してゲームに復帰できなくなります。また、ゼロにならなくても、一度に多くのSAN値が減ると、一時的な狂気に陥ります。
 そういったルールから派生して、ネットでは、クトゥルフ神話物であったり、狂気を孕んだものや、おぞましいものだったり、シュールさやカオスさを持った、話や画像、動画などに、SAN値という言葉が用いられるのです。

 たとえば、SAN値が減る~、SAN値が削られる~であったり、私のSAN値はもうゼロよ~だったりします。
 また、SAN値直葬という言葉もあります。こちらは、野菜などの産地直送にかけたものです。SAN値がすぐさまゼロになって発狂してしまう。つまり精神が直接墓場行きになる。そのような動画などに使われる言葉になります」

 ネット上で使われるSAN値という言葉。その意味を理解するための説明を、駆け足でおこなった。ふうっ、これで義務は果たした。楓先輩の信頼を維持することができたはずだ。

「あれ、満子は?」

 僕の説明が終わったあと、楓先輩が声を出した。
 うん? 僕は部室を見渡す。先ほどまでいた満子部長の姿がない。その代わりに、一枚の手紙が置いてあった。

「何かしら」

 楓先輩は、手を伸ばして手紙を開く。

 ――窓。

 その文字だけが書いてある。楓先輩は、小首を傾げたあと、部室の窓に目を向けた。

「きゃあああ~~~~! 窓に! 窓に!」

 その瞬間、楓先輩は悲鳴を上げた。
 何が起きたんだ! 僕は窓を見て驚愕する。窓の外に、女性の手が張り付いていた。僕は、ラブクラフトの「ダゴン」の一節を思い出す。

 ――ドアが音をたてている。何かつるつるした巨大なものが体をぶつけているかのような音を。ドアを押し破ったところでわたしを見つけられはしない。いや、そんな! あの手は何だ! 窓に! 窓に!

 楓先輩は驚き、ばたりと倒れてしまった。窓が開き、先輩を驚かせた満子部長が、窓枠をまたいで入ってきた。窓の外の手は、腕まくりをした満子部長の手だった。

「あれ、楓は?」
「目を回してしまいましたよ」
「ちっ、SANチェックに失敗したか」
「ひどいですよ、満子部長……」

 それから三日ほど、楓先輩は一時的狂気に陥った。そして、満子部長が山積みにした本を片っ端から消化した。そして、「フングルイ、ムグルウナフ、クトゥルフ、ルルイエ、ウガ=ナグル、フタグン!」といった感じで、謎の言葉を発し続けた。
 ……三日後に、楓先輩は、きょとんとした顔をして正気に戻った。どうやら精神が回復したようだ。ふぅ、よかった。僕は一安心した。