第216話「増田」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、名前を隠した者たちが集まっている。そして日々、闇に隠れて生き続けている。
かくいう僕も、そういった地下世界に身を置く系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、仮面を被った面々の文芸部にも、素顔で素直に生きる人が一人だけいます。シャア・アズナブルだらけのパーティーに紛れ込んだ、ララァ・スン。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、ととととと、と歩いてきて、僕の横にちょこんと座る。僕は先輩の、ぴしっと延ばした指先を見る。桜色の爪の先は、きれいに切りそろえられており隙がない。楓先輩は、身だしなみも完璧だ。その様子に、ため息を漏らしそうになりながら、僕は声を返す。
「どうしたのですか、先輩。知らない言葉をネットで見ましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの達人よね?」
「ええ。『Vフォー・ヴェンデッタ』の主人公Vが、ガイ・フォークスの仮面を被って戦っていたように、僕はアニメキャラのアイコンで顔を隠して、様々なネット闘争を繰り広げています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、様々なペルソナで書きまくるためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、人格を偽った人々の言説に遭遇した。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。
「増田って何?」
楓先輩は、その言葉を告げたあと、素早く言葉を言い添えた。
「これは、人名の増田さんではないんだよね? 人を指すようなんだんけど、かなりの人が増田と名乗ったりしているから、きっと職業名とかそういったものなんだろうなと、思っているんだけど」
ああ、これは、さすがに元の形は分からないだろう。特にエロくも危険でもない言葉だから大丈夫だ。僕は、さっそく説明を開始する。
「ネットで時折見かける増田というのは、『はてな匿名ダイアリー』という匿名日記サービスの俗称、あるいはそのサービスを利用している人たちを指します」
「『はてな匿名ダイアリー』? そのどこに、増田という言葉の断片があるの?」
「えー、分からないですよね。この匿名ダイアリーの部分を英語にすると、アノニマスダイアリーになります。この途中に増田という言葉が入っています。アノニ『マスダ』イアリーで、増田なわけです」
「あっ、なるほどね。それで、増田なのね」
「そうです。こういった匿名サービスの発言者に、共通名を付ける文化は、他の掲示板にもよくあります。ある掲示板の発言者が、すべて『名無しさん』になっているのも、こういった例の一つだと言えるでしょう。
この『はてな匿名ダイアリー』では、サービス名の通称が増田であるだけでなく、利用者も増田と呼ばれます。
ちなみに『はてな匿名ダイアリー』というのは、株式会社はてなという会社の、匿名日記サービスです。この会社は『はてなダイアリー』という日記サービスも持っており、その匿名版という位置付けです」
「なるほど、だから、頭に『はてな』が付くのね」
「そういうわけです。
さて、今の説明で出てきたアノニマスという言葉について、少し掘り下げておこうと思います。このアノニマスというのは、匿名という意味で、ネットでは時折出てきますから」
僕は、さらに深いネット知識を楓先輩に伝えるために、次なる情報を語り始める。
「ネット上のサービスや機能は、名前とパスワードで、自分が誰かを特定してから利用するものが多いです。
その一例としてFTPというものを紹介します。FTPは、ファイル・トランスファー・プロトコル、ファイル転送ネットワークの略です。これは、一昔前によく利用されていた、ファイルをアップロードしたり、ダウンロードしたりするネットワークです。
このFTPを使う際、通常は、名前とパスワードで自分が誰かを特定して利用します。この通常の利用方法に対して、名前をアノニマスにして、誰でも利用できるようにしたものをアノニマスFTPと呼びます。
名前を指定せず、匿名で利用できるFTPなわけですね。こういった、アノニマスなものは、ネットを利用していると、ぽつぽつと見かけるので、覚えておくとよいでしょう。
また、アノニマスという言葉は、違う文脈でもネットで出てきます。それは、アノニマスという名前の、ハッカー集団です。彼らは匿名の集団で、様々なネット規制に対して、サイバーテロを仕掛けることで有名です。
彼らは顔出しをしません。写真などに写る際は、映画『Vフォー・ヴェンデッタ』で主人公のVが着けて有名になった『ガイ・フォークスの仮面』を被って出てきます。そのため、アノニマス、イコール、ガイ・フォークスの仮面といったビジュアルイメージが、ネット上ではできています。
このガイ・フォークスというのが、何者なのかも、少し語っておきましょう。
この人物は、イギリスの歴史上の人物で、一六〇五年に未遂で終わった、国王爆殺計画の実行責任者です。
この事件は、カトリック教徒への弾圧に対する反発だったという背景があります。そのため、この人物の評価は、地方によって分かれています。国王暗殺の罪人として扱う地域もあれば、自由を求めて戦ったと英雄視する地域もあります。
その後、イギリスでは、ガイ・フォークス・ナイトという、ガイの人形を引き回して燃やすというお祭りが続くことになりました。そのため、ガイ・フォークスという人物は、イギリスでは、人々によく知られた存在なわけなのです。
そういった背景から、ガイ・フォークスの仮面というアイテムが、圧政に対する実力行使の抵抗運動の象徴として、利用されるようになったわけです」
「アノニマスに、ガイ・フォークスね。ネットの文脈を知るためには、ワールドワイドな知識が必要なのね」
楓先輩は、知識の広がりに興奮しているのか、両拳を握っている。僕は、さらに続けて、増田に関係する情報を、楓先輩に伝える。
「またもう一つ、増田という言葉で、押さえておいた方がよい話をします。それは、チャンコ増田という人物についてです。この人物の名前も、ネットでは時折出てくるからです。
チャンコ増田と言う人は、『ファミコン通信』という雑誌の名物編集者だった過去を持ちます。彼は、あることを切っ掛けに、ネットでブレイクしました。その切っ掛けというのは、『マネーの虎』という番組への出演でした。
『マネーの虎』という番組は、お金を持っている実業家たちの前で、新規事業のプレゼンをして、賛同を得られれば出資金を得られるというテレビ番組でした。そこにチャンコ増田氏は登場して、『オタクは素晴らしい』『オタク イズ ビューティフル』といった名言を残し、当時まだ流行っていなかった抱き枕を製造販売する事業のプレゼンをしました。
その痛さと迷走具合から、彼はネットで話題になりました。また、『マネーの虎』で出資者をしていた人の多くが、のちに会社を倒産させるなどしたため、その話題が出るごとに、そういえばチャンコ増田は……と、引き合いに出される人物になっています。
というわけで、増田というネットスラングを覚えるついでに、チャンコ増田氏のことも覚えておくと、ネットの話題が分かりやすくなると思います」
僕は、増田の周辺知識について、一通り話し終えた。
「なるほどね。増田は匿名だけど、匿名ではない増田さんもいるのね」
「ええ。匿名の増田を紹介するらならば、有名な増田さんも紹介しなければと思ったので、付け加えておきました」
僕は、ほくほく顔で答える。
「ねえ、サカキくん」
「何でしょうか、楓先輩?」
「そういえば、この部室にも匿名日記があるわよね。文芸部ノートという名前の」
「ええ、ありますね。部員が自由に書き込んでよい自由帳が」
「その匿名日記で、気になっていたことがあるの」
「何でしょうか?」
楓先輩は、部室中央の机から、匿名日記を取って戻ってくる。そして、僕と並んで座って、ページを開いた。
「匿名日記だから名前はないんだけど、やたらとサカキくんを褒めている書き込みがあるの。ほら」
楓先輩は、ノートのいくつかの場所を指差す。
――サカキくんは、楓先輩にさりげなく席を譲った。
――サカキくんは、楓先輩の机の周りを、さりげなく掃除した。
――サカキくんは、楓先輩の机に、さりげなく花を飾った。
「匿名の書き込みですね。だから、誰が書いたのか分かりません」
「ねえ、サカキくん。これって、もしかして、サカキくんが書いたんじゃないの?」
うっ。僕は、言葉につまる。匿名で、僕の楓先輩に対するおこないを書いて、こっそりとアピールする作戦だったのだが、見抜かれそうになっている。
このままでは、やたらうざい主張をする、親切の押し売りをする人物だと思われかねない。それは避けるべきだ。僕は、必死に頭を働かせて、返事をする。
「楓先輩。匿名で書かれた文章は、誰が書いたのか詮索するべきではありません。きっと、匿名で書いた、大いなる理由があるはずです。匿名の書き込みは、そっとしておくのがよいと思います」
「そういうものなの?」
「そういうものです」
「でも、書いた文章が、剽窃されたら困るよね。だから、こっそりと自分が書いたと主張できる要素を、入れたりしているんじゃないの?」
「まあ、人によっては、そういったことをする人もいるでしょうね」
「やっぱりね! じゃあ、サカキくんがもし匿名で書く場合は、どういった方法で、そういう要素を入れるの?」
楓先輩は、興味津々といった様子で僕を見上げている。そこまで、熱い視線で見られたら答えるしかない。僕という人間は、先輩に大いに興味を持たれているのだなあ。そう考えながら、僕は調子に乗って言葉を返した。
「僕の場合は、サカキくんマークを付けます。木を逆向きにしたマークです。逆さの木で、サカキというわけですね」
「どんなマークなの?」
「じゃあ、書いてみます」
僕は、ノートに、さらりとそのマークを書いた。
Ψ
十
僕が書いたマークを見た楓先輩が、ぼそりとつぶやく。
「あっ、あった。サカキくんマークがいろんな場所に」
し、しまった。僕は、匿名日記に書いた、自分のマークを明かしてしまった。僕と楓先輩は一分ほど沈黙を続けた。そして僕は、羞恥のために顔を真っ赤に染めてしまった。
それから三日ほど、僕は恥ずかしくて机の下にこもって過ごした。匿名日記で楓先輩にアピールしまくっていたことを見抜かれた僕は、部室内で身を縮めて、ほとぼりが冷めるのを待った。
僕は、匿名どころか、存在すら消すべく努力したのだ。
三日間経ち、僕は机の下からごそごそと顔を出した。
楓先輩は、僕の顔を見て、きょとんとした顔をした。「あれ、こんな部員いたかな?」といった顔だ。どうやら僕は、存在を消しすぎて、楓先輩に忘れられてしまったようだ。僕は、楓先輩の中での知名度を上げるべく、それからさらに三日間かけて奮闘しなければならなかった。