雲居 残月 の 小説道場

主に「小説家になろう」で書いた話を中心に、小説投稿をおこなっていきます。

第210話「乙」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』

f:id:kumoi_zangetu:20140310235211p:plain

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、相手をいたわる者たちが集まっている。そして日々、気遣いすぎて距離感をつかめず、右往左往している。
 かくいう僕も、そういった考えすぎて自滅する系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。

 そんな、二手先、三手先を読む面々の文芸部にも、先を読まずに素直に会話をする人が一人だけいます。真剣師ばかりの道場に迷い込んだ、平気で二歩を指す素人さん。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。

「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」

 間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、ととととと、と歩いてきて、僕の横にちょこんと座る。先輩は、背筋をしゃんと伸ばして、首を少し傾けて僕を見上げる。眼鏡が僕の間近に迫り、その下の大きな目と、長いまつ毛がよく見えた。先輩は、その目をぱちくりとさせる。そして、口元を柔らかくほころばせる。ぴしりとした姿勢と、柔和な表情。その魅惑のコラボレーションに、僕はめろめろになりながら、声を返す。

「どうしたのですか、先輩。よく分からない言葉をネットで見かけましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの達人よね?」
「ええ。マンガ『包丁人味平』で、鼻田香作がブラックカレーを作り上げたように、僕は飽くなき探究心で、ネットの禁断の魅力を暴いています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」

 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、休むことなく書き続けるためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、心癒やされる数々の逸話を読んでしまった。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。

「乙って何?」

 楓先輩は、その言葉を告げたあと、素早く台詞を続けた。

「もちろん、辞書的な意味は知っているよ。甲乙丙丁……の十干の、二番目のもの。邦楽で、甲より一段低い音。そこから派生して、普通とは違い、味わいのある様子。
 でも、ネットで使われている乙は、どうも意味が違うみたいなのよね」

 楓先輩は、そこまで一気に言い、どういった意味かなという様子で、僕に顔を寄せてきた。きっと先輩は、辞書できっちりと調べてきたのだろう。その上で、ネットの知識が豊富な僕に、辞書に載っていない内容を求めているのだ。
 いいでしょう。ネットの申し子たる僕が、見事に解説していきましょう。楓先輩の疑問を、僕が解決して差し上げましょう!

「先輩。ネットの乙は、ある言葉の略語です」
「ということは、元の形があるのね?」

「そうです」
「ちょっと待って。当ててみせるわ」

 楓先輩は、難問を楽しむようにして、真剣な顔つきで考え始める。僕はその様子を、斜め上の角度から眺めつつ、先輩の答えを待つ。

「乙女かしら?」
「残念ながら違います。乙女ではありません」

「乙女心?」
「それも違います」

「じゃあ、乙女座?」
「えー、乙女から離れてください」

 僕は、楓先輩に突っ込む。先輩は、どうやら燃えてきたようだ。目を闘志でめらめらとさせながら、略語の元の形を当てようとする。

「それじゃあ、乙子?」
「末っ子という意味ですね。その言葉の略語ではありません」

「乙名?」
「大人、長老などの意味ですね。これも違います」

乙巳の変?」
「イッシノヘンですか。大化元年に、蘇我入鹿中大兄皇子に暗殺された事件ですね。その言葉を、ネットで使う理由はありません」

「難しいのね……」

 楓先輩は、しょんぼりとした顔をする。そろそろ教えた方がよさそうだ。僕は、ネットの乙が、何を略したものなのか話し始める。

「ネットの乙は、お疲れ様の略語です。お疲れ様を短く『おつ』と書き、変換すると『乙』になるのです。これが、ネットでよく見る乙の正体です」
「なるほどね。お疲れ様の意味だったのね」

 先輩は、謎が解けたといった様子で笑顔を見せる。

「そうです。そして、この乙は、他の言葉のあとに付けて使うことが多いです。スレ立て乙、うP乙、などと用います。
 この場合、スレ立ては、掲示板のスレッドを立てること、うPは画像ファイルなどをアップロードすることを意味します。そういった行為に対して、ありがとう、お疲れ様と声をかけているわけです。

 こういった、慰労の意味で使われる乙という言葉ですが、逆に嘲笑の意味で用いられることもあります。そういった用法には、自演乙、ステマ乙といったものがあります。
 この自演とは、自作自演です。また、ステマとは、ステルスマーケティング、つまり素性を隠して口コミ風に見せた宣伝活動のことを指します。

 この自演乙やステマ乙といった使い方の場合は、相手の行動を把握していると伝えながら、『はいはい、お疲れ様。無駄な努力、ご苦労さん』と伝えるような意味合いになります。
 この用法では、相手のことを慰労していないのに、お疲れ様と言うことで、相手を一段下に見て、馬鹿にしているわけです。このように、乙は、肯定的なニュアンスと、否定的なニュアンスの両方で使われることがあります。

 また、この言葉が、乙の形になる前のものも、存在しています。
 今ではあまり使われませんが、乙カレーという言葉もあります。これは、『お疲れー』の『おつ』の部分が『乙』という字になり、『かれー』の部分が『カレー』という料理名になったものです。
 この乙カレーにちなんで、打ち上げの時に、カレーを食べることもあります。これはまあ、言葉遊びですね。

 というわけで、お疲れ様が、ネットの乙の正体になります」

 僕は楓先輩に、乙という言葉の説明をした。先輩は、なるほどといった様子で、目を輝かせる。

「へー、ネットでよく見かける乙って、そういう意味だったのね」
「そうです」

「そして、乙カレーという言葉もあるのね」
「はい、そういったネットスラングも存在しています」

 僕がそう告げると、先輩のお腹が、ぐーっと鳴った。先輩は、恥ずかしそうに顔を真っ赤に染める。

「カレーの話を聞いたら、何だかお腹が空いてきちゃった」
「先輩は、カレーは好きですか?」

「好きよ」
「自分で作ったりもするんですか?」

 楓先輩の手作りカレーかあ。僕は、その料理をほおばる自分を、想像しながら尋ねる。

「サ、サカキくんは?」

 なぜか楓先輩は、焦るようにして僕に聞いてきた。どうしてだろう?

「ええ、まあ、たまに家で作りますよ。両親が忙しい時は、僕が、ちゃちゃっと作ったりすることがありますから」
「えっ? サカキくんって、すごいね!」

「いや、普通だと思いますよ」

 楓先輩は、ばつが悪そうな顔をする。

「どうしたのですか、先輩?」
「う、うん。何でもないよ」

「本当にどうしたんですか?」
「ううん。本当に、本当に、何でもないよ!」

 楓先輩は、珍しく僕から目を逸らす。

「それで、楓先輩は、カレーを作ったりするのですか?」

 最初の質問に戻る。すると楓先輩は、諦めたような顔をして、もじもじとしながら答えた。

「家では、一回しか作ったことがないの」
「そうなんですか?」

「うん。包丁で怪我をしてしまって。それがトラウマで、カレーだけなぜか駄目なのよ。他の料理は、大丈夫なんだけどね」

 そんなことがあるのか?
 でもまあ、楓先輩は、あまり器用ではなさそうだ。そもそも手が小さいから、じゃがいもの皮をむくのが大変そうだ。なるほど、だからカレーを作る話題を避けていたのか。

「大丈夫ですよ、楓先輩。カレーぐらい、すぐに作れるようになりますよ! 何なら、僕が毎日先輩の家に行って、カレー作りの実験台になってもいいですよ!」

 僕は、拳を握って主張する。そう、それはまるで夫婦のような関係だ。そして僕は、いつしか、楓先輩が作る料理を毎日食べる、本当の夫の立場になるのだ! 僕はそんな妄想をしながら、楓先輩の返事を待つ。

「う、うん。でも、きちんと作れるようになってからね」
「はい。いつまでも待ちます。だから、カレーを作ってください!」

 僕は楓先輩の手を取って言う。先輩は、顔を真っ赤にして、こくんと返事をした。

 翌日、部室に行くと、両手を絆創膏だらけにした楓先輩が、どんよりした空気をまとっていた。

「先輩、どうしたんですか?」
「う、うん。ちょっとね」

「その手の傷は?」
「違うのよ。カレーを作っていたわけじゃないのよ」

 カレーを作っていたんだ。僕は、そう思い、楓先輩の手を見る。

「先輩、カレーは……」
「カレーは、作ってないよ! だから、サカキくんには、食べさせられないから! カレーの話題禁止! いい。分かった?」

「は、はい……」

 僕は仕方がなく返事をする。せっかく、楓先輩とカレーを食べられる毎日が来ると思っていたのに。作戦は失敗だったようだ。僕は楓先輩と、毎日家で「乙カレー」と言う関係になりたかったのに……。
 僕は、楓先輩に視線を向ける。楓先輩は、絆創膏だらけの両手を隠して、僕から逃げる。そして、僕から手を隠したまま、部室の隅っこに引きこもった。

広告を非表示にする