雲居 残月 の 小説道場

主に「小説家になろう」で書いた話を中心に、小説投稿をおこなっていきます。

第193話「お兄ちゃん」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』

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 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、少しだけ背伸びをした者たちが集まっている。そして日々、年下の子に愛情を注ぎ続けている。
 かくいう僕も、そういった幼さを愛する系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。

 そんな、年長者の威厳漂う面々の文芸部にも、背伸びもせず自然体の人が一人だけいます。大人の階段を駆け上がる人々を遠目で見る、永遠の少女。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。

「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」

 間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、ととととと、と駆けてきて、僕の横にちょこんと座る。先輩は僕よりも年上だ。僕にとっては、お姉さんのような存在だ。でも、実際の先輩は、ちんまりとしていて、細くて小さく、年下と言っても通る容姿をしている。僕は、そんな先輩の姿を愛でながら、にこにこ顔で声を返す。

「どうしたのですか、先輩。ネットで理解不能の言葉に出会いましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの達人よね?」
「ええ。光源氏が、紫の上を自分の理想通りに育てたように、僕はネットを巡回して、自分自身を理想の男性に育てています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」

 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、いとおしみながら書き進めるためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、自分より若い人が積極的に発言していることに驚いた。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。

「お兄ちゃんって何?」

 楓先輩は、その言葉を言ったあと、すぐに言い添えた。

「もちろん、兄弟姉妹の兄のことは分かっているよ。でも、ネットを見ると、それだけではないニュアンスを持っているように思えるの」

 ああ、確かに微妙なニュアンスの違いを感じるかもしれない。楓先輩が見た、お兄ちゃんは、いわゆる男性オタクが好む、妹萌えに由来するものだろう。僕は考える。この言葉は危険ではない。さっと解説して、先輩の信頼を勝ち得よう。
 僕が笑顔で口を開こうとした瞬間、部室の一角から声が聞こえてきた。

「サカキ先輩は、私に言いました。女性と相対する時の、僕の理想の立場は、お兄ちゃんだと」

 ぶほっっ!! 僕は思わずむせてしまう。
 な、な、な、何ですか? いったい誰が、そんなことを言っているんだと思い、僕は声の主に顔を向けた。そこには、僕の苦手な相手、一年生の氷室瑠璃子ちゃんが座っていた。

 瑠璃子ちゃんは、氷室という名の通り、僕に対して氷のように冷たい女の子だ。だが、瑠璃子ちゃんの特徴は、それだけではない。どう見ても、小学校低学年にしか見えない外見。そして人形のように整った顔。その姿と、目付きと、きつい性格のせいで、「幼女強い」という謎の陰口を叩かれている女の子だ。

 その瑠璃子ちゃんは、なぜか僕に厳しい。「歩き方がだらしないのは、骨格に欠陥があるからですか」とか、「眠そうな顔をよくしているのは、眠りながら生活しているからですか」とか、「なぜそんなに、人類の退化の限界を目指しているのですか」とか、世話焼き女房のように、いつも小言を言ってくる。
 僕のガラスのハートは、そのたびに粉々に砕けそうになる。瑠璃子ちゃんの言葉の暴力に、僕はいつも打ちのめされているのだ。

「あ、あの、瑠璃子ちゃん。僕はいつ、そんなことを言ったのかな?」
「はあぁ。サカキ先輩の記憶力のなさには期待していませんが、相変わらずですね。私が小学五年生の時、サカキ先輩が小学六年生の時です」

 そ、そうだったかな。僕は必死に記憶を蘇らせようとする。うーん、うーん。僕はうなったあと、過去へと意識をさかのぼらせた。

 それは小学六年生の時のことである。僕は小学校という閉鎖社会の頂点に立ち、下々の者たちを睥睨していた。頂への道は一日にしてならず。五年という過酷な日々を経ることで、僕は六年生という最上位の座を獲得した。それは、天に選ばれた僕だからこそなしえた、偉業だったと言えるだろう。

 そんな頂上者として僕は、運動場の片隅から、自分の統べる女児たちを眺めていた。一年生から五年生まで、よりどりみどりだ。それは、幼女の楽園とでも言うべき光景だ。僕には彼女たちを守り、導く責任がある。その責任の重さに、僕は身を震わせていた。

「あの、サカキ先輩。何をしているのですか?」

 僕の楽園の住人の一人、瑠璃子ちゃんが語りかけてきた。

「校庭でたわむれる女の子たちを、見ていたんだ」

 僕は、優しげな声で、瑠璃子ちゃんに答える。そして、瑠璃子ちゃんに、自分の胸の内を語った。

「数年前、僕は年上の少女たちに憧れを持っていた。そして今では僕がその年齢になり、年下の少女たちを見ている。時代の流れというものを、僕は感じるよ。人類は、この大きな時のうねりの中で、歴史というものを刻んできたのだと実感するよ」

 僕は、雄大な人類史の一ページに、自分がいることを感じながら告げた。

「そうなんですか。何だかすごいですね」

 いまだ幼く、僕を素直に尊敬してくれる瑠璃子ちゃんは、感心しながら言った。

「それで、女の子たちを眺めて、何をしていたのですか?」
「えっ?」

 いや、ただ眺めていただけなのだけど。僕はそう思った。それ以上の計画は、何もなかった。美少女鑑定士たる僕は、あくまで客観的な視点で、少女たちの美しさを鑑賞していただけである。

 しかし、それでは瑠璃子ちゃんは納得してくれそうもなかった。僕は、尊敬される人間として、何か人生に役立つ訓戒を垂れなければならないと感じた。それこそが、この小学校という人類が築いた社会の、先導者たるべき僕の使命だろう。

「僕は、彼女たちの兄なんだ」
「兄ですか。それは、お兄ちゃんということですか?」

 瑠璃子ちゃんの台詞に、僕は背筋をぞくぞくとさせる。知らなかった。まだ小学六年生の僕に、そんな妹萌えがあるなんて。
 これは、新しい世界に踏み出せるかもしれない。何気ない一言が、新たな性癖の扉を開くこともある。その事実を僕は知った。僕は、人生において貴重な経験をしている。この扉を開き、新たな一歩を踏み出すべきだ。

「そう。僕は、この学校の女の子たちの、お兄ちゃんなんだよ」
「それは。年齢が上だということでしょうか? それとも、血縁的な意味での兄なのでしょうか」

 瑠璃子ちゃんは、事実関係を確かめるために、踏み込んだ質問をしてくる。
 僕は、どのような関係が、最も萌えるかを考える。それは、近所のお兄さんという立場のお兄ちゃんだろうか。あるいは、義兄としてのお兄ちゃんだろうか。それとも、実兄としてのお兄ちゃんだろうか。

 僕は想像する。世界は百人の村だと。その村には、僕と九十九人の妹が住んでいる。僕は彼女たちの実兄として、みんなに、お兄ちゃんと呼ばれるのだ。そして、すべての妹に囲まれて暮らすのだ。
 妹で満たされた世界。僕は、その世界の唯一神ならぬ、唯一兄として、君臨するのだ! それは、まさにパラダイス。妹と、お兄ちゃんによる、パライソワールド! 僕は両手を高く上げて、校庭にいる少女たちに大声で呼びかけた。

「僕は、君たちの、お兄ちゃんだよ!!」

 校庭の時間が止まった。僕は、ワールドの能力を使った。し、しまった。心の中の声を、思わず口にしてしまった。そして、時は動きだす。

 校庭にいた女の子たちが、やばいものを見たという顔で、少しずつ去って行く。校庭には、呆然としている男の子たちと、僕と、瑠璃子ちゃんだけが残された。世界が百人の村だとすると、一人の僕と、瑠璃子ちゃんと、九十八人の男の子で、その村は構成されていた。

「サカキ先輩……。女の子たちは、去って行きました。先輩の言うお兄ちゃんは、どういった意味だったのでしょうか?」

 瑠璃子ちゃんは、心配そうに尋ねてくる。僕は、年長者としての威厳を示さなければならない。僕は顔を上げる。そして、爽やかな笑顔で、声を返した。

「そう、お兄ちゃんというのは、僕の行動規範なんだよ。それは、僕の理想とでも言うべきものだ。騎士が騎士道精神に則るように、僕はお兄ちゃん精神に則るんだ。女性と相対する時の、僕の理想の立場は、お兄ちゃんなんだ。いつでも、どこでも妹を守る、そんな人間に、僕はなりたい」

 瑠璃子ちゃんは、いたく感動した様子を見せた。僕は先輩としての体面を、何とか維持することができた。そんなことが、小学六年生の時にあったのである。

「ねえ、サカキくん。それで、お兄ちゃんというのは、いったいどういう意味を持つの?」
「はっ!」

 僕は、文芸部の部室に意識を戻す。横には楓先輩がいた。少し離れた場所には、瑠璃子ちゃんがいる。僕は、ネットスラングの解説をしなければならない。僕は、楓先輩の期待に応えるために、勢い込んで語りだす。

「お兄ちゃんというのは、オタクの萌えに関する言葉です。萌えというのは、その対象に強く好意を持ち、いとおしむという感情です。この萌えの文脈で、お兄ちゃんという言葉は、語らなければなりません。

 まずは、比較的簡単な、女性オタクから見た、お兄ちゃんについて語ります。自分や、自分を投影したキャラクターを、見守ってくれる優しい存在。また、ちょっと駄目なところもあったりする愛すべき存在。そういった、血縁の兄や、近所のお兄さん、そういった存在に対する萌えとして、女性オタクの中では、お兄ちゃん萌えというものが存在します」

「年上の、お兄さん的立場の人に対して、憧れながらも可愛いところがある。そう思う、感じなの?」
「そんなところですね」

「女性オタクのお兄ちゃんについて語ったというこいとは、男性オタクのお兄ちゃんについても語るの?」
「そうです。そして、こちらが本題になります」

 僕は、一呼吸置いて考える。お兄ちゃんについて理解するためには、妹萌えという、男性オタクの心理について解説しなければならない。僕が小学六年生の時に開眼した、萌え属性。僕は、その意味について語りだす。

「男性オタクには、様々な萌え対象があります。メイド萌え、ナース萌えといった、職業や立場に対する萌え。猫耳萌え、金髪萌えといった、容姿に対する萌え。その他にも、性格や地位など、様々な萌え対象が存在します。
 その中でも、最強に近い一角を築いているのが、妹萌えになります。

 妹というのは、家族の一員です。そういった家族内の女性には、妹以外にも、姉や母、娘といった人々がいます。その中でも妹は、特筆して萌えとしての勢力が大きいです。
 それはなぜなのでしょうか? 理由は、男性オタクが望む、女性との関係性に原因があると思われます。

 妹というのは、年齢が幼い時は、無条件で兄を慕います。そして幼いということは、それだけで、鑑賞に値する愛らしさを持つということを意味します。そして、兄と妹は年齢が近く、身近な恋愛対象となり得る年齢差を持っています。そういった、幼く、可愛く、無条件で慕ってくれて、恋愛対象として見ることができる。そうした条件を、妹という存在は有しています。

 そういった男性オタクを刺激する、妹という設定は、様々な作品で、上手く活用されてきました。
 マンガやアニメでは、ヒロインの一人として、主人公を無邪気に慕う、年下の女の子が出てくることがあります。そういったキャラクターは、実妹であったり、義妹であったり、近所の妹的立場の女の子だったりします。
 そうしたキャラクターを通して、オタクの間で、妹というものは、一つの典型例として受容されてきました。

 このような妹という存在に、妹萌えという決定打を与えたのは、『シスター・プリンセス』というメディアミックス作品ではないかと、僕は思います。
 この作品は、読者企画やゲーム、アニメ、小説とマルチに展開しました。その中でも特に、ゲームの『シスター・プリンセス』を取り上げてみましょう。このゲームは、いわゆる恋愛シミュレーションゲームです。そして、その攻略対象、つまり恋愛対象は、十二人の妹たちになります。
 この『シスター・プリンセス』は、妹というキャラクターを、コンテンツの中心に据え、妹だらけの妹世界を作りだしてしまったのです。

 また、お兄ちゃんという言葉を前面に押し出した企画としては、『週刊わたしのおにいちゃん』という、フィギュアが付属するブックレット作品がありました。
シスター・プリンセス』は、二〇〇〇年代初頭、『週刊わたしのおにいちゃん』は、二〇〇四年。この時期から、妹萌えのお兄ちゃんという設定が、オタクの中でも強固な概念として確立していったと思われます。

 そして現在では、お兄ちゃんと言えば、妹属性を持つ持たないにかかわらず、萌えを愛するオタク紳士を指す代名詞としても、用いられるようになったのです」

 僕は、お兄ちゃんについての説明を終える。楓先輩は、なるほど、そういうことだったのね、という顔をした。

「サカキくんは、オタクよね」
「ええ、そうです」

「ということは、サカキくんは妹萌えで、お兄ちゃんと呼ばれるような人ということ?」
「えー、そうなりますね」

「じゃあ、私は、年上だから、サカキくんの萌え対象ではないわね」

 楓先輩は、少し残念そうに声を漏らす。こ、これはまずい。このままでは、僕の恋愛対象から外れると、楓先輩に思われてしまう。そうなってしまえば、これからの僕の恋愛戦線に、大きな戦略上の穴が空くことになる。

「楓先輩、そんなことはありません! 僕は、百の萌えを持つ男として、ネット上で大活躍しています。
 妹に萌えます。姉に萌えます。母に萌えます。娘に萌えます。従姉妹に萌えます。幼馴染みに萌えます。先輩に萌えます。後輩に萌えます。女教師に萌えます。幼女に萌えます。幼稚園の先生に萌えます。隣のお姉さんに萌えます。近所の年下の少女に萌えます……」

 僕は怒濤の勢いで、百の萌えについて語る。それは、千手観音的な萌えだった。千手千眼観自在菩薩。その千の手には、それぞれ目が付いている。同じように僕は、百の萌えに通じる、百の鑑賞眼を持っているのだ!

「……サカキくんは、お母さんにも萌えるの?」

 どん引きするようにして楓先輩は言った。うぇー、現実のお母さんには、萌えませんよ。僕は慌てて否定する。

「いや、この場合の萌えは、現実の母や妹を表すわけではありません。よく言われますが、本物の妹がいる人の妹萌えは、多くの場合、非実在妹に限定されます。本物の妹は、わがままで横暴で、兄を人とも思わず、可愛くないことが多いからです。母萌えも、それと同じです。現実の母に萌えるわけではありません!」

 僕は必死に主張する。楓先輩は、混乱した顔で僕に尋ねる。

「サカキくんの頭の中には、現実のお母さんや、非現実のお母さんや、実在していない妹や、存在していないお姉さんがいるの?」
「そうです!」

 楓先輩は、かわいそうな目で僕を見る。

「サカキくん。大丈夫?」

 う、う、うわあああ~~~~~ん。
 オタク趣味のない楓先輩には、難しすぎる概念だったようだ。

 楓先輩は、それから三日ほど、現実と妄想の区別のつかない人として、僕を扱った。その間僕は、心に傷を負ったまま過ごした。そして、実在しない、心の中の妹に「お兄ちゃん、よしよし」と慰めてもらった。