雲居 残月 の 小説道場

主に「小説家になろう」で書いた話を中心に、小説投稿をおこなっていきます。

第185話「くぱぁ」

f:id:kumoi_zangetu:20140310235211p:plain

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、猥褻を体現した者たちが集まっている。そして日々、性のフロンティアを開拓するために研究し続けている。
 かくいう僕も、そういった探究者肌の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。

 そんな、カーマスートラを熱心に読みふける面々の文芸部にも、健全でレーティングの制限なしの人が一人だけいます。カメラを向けると自動でモザイクがかかる「マラい男」たちに囲まれた、世界名作劇場のヒロイン。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。

「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」

 間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、ととととと、と歩いてきて、僕の右隣にちょこんと座った。先輩は手を、そっと自分の太ももの上に置く。その指先はすっと伸び、茶道の所作のように美しい。僕は、その手を見つめた。肌は透き通るように美しく、爪はきれいに整えられている。僕は、そんな先輩の手に、頬ずりしたくなるのをがまんしながら、声を返す。

「どうしたのですか、先輩。見たことのない言葉に、ネットで出会いましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの膨大な知識を持っているのよね?」
「ええ。空海が日本に密教などの最新文化を請来したように、僕はネットの怪しげな知識を現実社会に持ち込みます」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」

 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、休日でも書けるようにするためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、これまで目にしたことのない、様々なディープな情報を目撃した。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。

「くぱぁって何?」

 ぶっ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!
 楓先輩の口から、そんな卑猥な言葉が、飛び出るとは思わなかった。や、やばい。圧倒的に猥褻な、ネットスラングがやって来た。

「え、ええと、それは、ちょっと僕の口から言うのは、なかなか難しく」

 僕は、しどろもどろになりながら答える。

「どういうことなの? サカキくんが知らない言葉なの」
「そ、そんなことはありません。しかし、説明にかなりの困難を要する言葉で」

 僕が、必死に言い訳をしていると、楓先輩が不満そうな顔をした。うっ、これは、無理を押してでも答えなければならないのか? そう思っていると、部室の一角で、勝ち誇ったような哄笑が響き渡った。

「ハハハハハ。サカキが説明できないのならば、部長である私の出番ね!」

 ぶっ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!
 再び盛大に噴いて、僕は視線を向ける。そこには、この文芸部のご主人様、僕の天敵、三年生で部長の、城ヶ崎満子さんが立っていた。

 満子部長は、古い少女マンガに出てきそうな、お嬢様風のゴージャスな容姿をした人だ。しかし、この姿に騙されてはいけない。その中身は、気高くも真面目でもなく、エロに染まった品性下劣なものだからだ。
 満子部長が、そういった困った性格をしているのは、その出自のせいだ。満子部長は、父親がエロマンガ家で、母親がレディースコミック作家という、サラブレッドな家に生まれた。そういった家庭環境であるために、両親から受け継いだ、深遠にして膨大なるエロ知識を保有している。そして性格はSであり、僕をこの部室で、ちくちくといたぶるのを趣味としているのだ。

「いやあ、何せ、私の得意分野だからな! いくらでも説明してやるぞ!!」

 エロマンガに異様に詳しい満子部長は、嬉しそうに笑いながら、僕の席にやって来る。そして、当然のような顔をして、僕の左隣に座った。僕は、右手にコスモス、左手にトリカブトという状態になる。

「み、満子部長。この言葉は、まずいです。頼むから、黙っていてください」
「何だサカキ。私を信用していないのか? 大丈夫だ、問題ない。きちんと隠して説明してやる! というわけで楓。くぱぁは、あわび……」

 僕は、満子部長にヘッドロックをかけ、口を必死に押さえつけた。

「ねえ、サカキくん。あわびがどうしたの?」

 楓先輩は、不思議そうに僕に尋ねる。

「そ、それは」

 僕は苦しげに声を漏らす。そのせいで、満子部長を押さえている、僕の手がゆるんだ。満子部長は、僕の拘束から逃れて口を開く。

「じゃあ、赤貝!」
「それも駄目です!!」

「じゃあ、秘宝館的な何か!」
「満子部長は、黙っていてください!!」

「なんだよう。方言で、ぼぼ!」
「ガルルルル!! いいから、口をつぐんでください!!!」

 僕は、威圧して満子部長を黙らせる。そして、楓先輩に向き直った。

「ねえ、サカキくん。話が全然先に進まないんだけど、それで、くぱぁって何?」
「えーと、それはですね」

 僕は、目を逸らせて弱気になる。すると、すかさず満子部長が、割り込んできた。

「サカキが、いろいろとうるさいから、拡張の視点から語ってやろう」
「拡張の視点?」

「そうだ。私の好むジャンルのマンガには、様々な拡張表現があり」
「拡張は、拡張現実の拡張です! そう、オーグメンテッド・リアリティ、ARです!!」

「違うぞサカキ。拡張表現は、この場所を、こうやって……」
「ストップ! ストップ! ストップ! そこ、ポーズを取らない!」

 僕は、M字的何かの姿勢になろうとする満子部長の動きを、必死に妨害する。
 駄目だ。このままでは、いずれ満子部長が、くぱぁについて、赤裸々に語り出す。それを防ぐには、僕が素早く穏当な方法で、この言葉について解説しなければならない。僕は意を決して、くぱぁについて語り出す。

「楓先輩。くぱぁは、マンガ表現で使われる、オノマトペの一種です」
オノマトペということは、擬音語や擬声語、擬態語ということなの?」

「そうです。マンガは、音のない絵画的表現ですが、映画のような時間進行を扱います。そして、その物語の展開の過程では、様々な音や雰囲気の演出がおこなわれます。
 そういった、映画の効果音やBGMに相当する表現が、マンガではオノマトペになります。そのため、様々なオノマトペが、マンガの歴史の中で開発されて、定着してきました。

 そういったマンガで用いられるオノマトペには、音の雰囲気を上手く利用したものが多く見られます。
 たとえば、静寂をあらわすシーンは、元々あった静けさを表す副詞、しいんから来ているのでしょう。この表現は、静かな場所で、耳の中にわずかにこもる、耳鳴り的な音を写し取ったものだと推測できます。
 また、ドドド、ゴゴゴなどの心理描写の音は、緊張した時に聞こえる心音から考えられたのだと思われます。

 このように、音の由来は、オノマトペでは非常に重要です。くぱぁも、そのように、音に注目することで、それが何を表現しているのかを、推察することができます。

 それでは、くぱぁについて、音の面から、その意味を探っていきましょう。
 最初の音のクは、カの音と、ウの音に分解することが可能です。カ行は無声軟口蓋破裂音です。これは、舌の後部と、軟口蓋で閉鎖を作り、解放する音です。また、ウという音は、後舌の狭母音になります。これは、舌の後方を高く盛り上げ、口をあまり開かない音になります。
 つまり、クという音は、閉鎖して狭まった状態から、何かが開くという予感を僕たちに与えてくれます。

 そして、次のパァです。
 パは、両唇を閉じてから開放する破裂音になります。そして母音のアは、非円唇中舌広母音で、口を大きく開いて発する音です。このパに、余韻のァを加えることで、開いた状態を長く維持する様子を、僕たちに想起させてくれます」

 僕がそこまで説明したところで、楓先輩が話に割ってきた。

「つまり、くぱぁの音韻から、何か閉じたものが開かれ、その状態が長く維持されることが、感じ取れるということね?」

「そうです。くぱぁとは、まさに楓先輩が述べたように、ある何かが、閉じられた状態から、開かれた状態に移行して、一定時間維持されることを表現するオノマトペなのです。

 この表現は、あるジャンルのマンガから登場しました。そして、ネットに広がり、定着していきました。この擬態語は、ネット上では、名詞として用いられたり、サ行変格活用の動詞として使用されたりします。そのため、くぱぁする、くぱぁしている、などと使われることもあります」

 僕は、根本的なところを巧妙に隠して、くぱぁの説明を終えた。

「なるほどね。閉じているものが開いて、その状態を維持するのが、くぱぁなのね。じゃあ、扉を開いて、開きっぱなしにすると、くぱぁなの?」
「ち、違います」

「そうなの? じゃあ、お仏壇を開いて、そのままにしておくと、くぱぁなの?」
「か、観音様ならば、そうかもしれません」

「うーん。使い方が難しいわね。ねえ、サカキくん。くぱぁを使う対象を、きちんと教えてちょうだい」

 だ、駄目だ~~~~!!!!! 僕は、心の中で悶絶する。に、逃げられない。楓先輩は、検非違使のように、僕の言い逃れを追及してくる。どう答えるべきか分からず、僕がおろおろしていると、僕の左隣にいた満子部長が、右手を高々と上げて、Vサインを作った。

「つまり、こういうことだ」

 満子部長は、その二本の指を閉じ、僕を乗り越えて、楓先輩の両手の間、つまり、ぴたりと閉じた太ももの付け根辺りに近付ける。そして、くぱぁの言葉とともに、二本の指を開いた。
 その行為を見て、楓先輩はきょとんとした顔をする。そして、徐々に顔を真っ赤に染めて、顔をぷるぷると震わせた。

 ああ……。
 僕は、すべてが終わったことを知った。必死に核心を避けていた僕の努力は、水泡に帰した。楓先輩は立ち上がり、僕と満子部長に説教を始めた。

「が、学校で、そんな破廉恥なことをしては、いけませ~~~~ん!」

 楓先輩は、僕と満子部長を正座させて、激しく非難する。
 う、ううっ。僕は、まったく悪くありませんよ。悪いのはすべて、満子部長ですよ。そして、すべての元凶は、楓先輩の質問ですよ。しかし、そういった台詞は言えず、僕は必死に、お説教を聞き続けた。

 それから三日ほど、僕は満子部長の同類として扱われた。僕は、心に傷を負った。そんな、くぱぁと開いた、僕の心の傷が癒えるのには、それから三日ほどかかった。