第30話「波刈神社 その4」-『竜と、部活と、霊の騎士』第5章 決闘
◇佐々波珊瑚◇
白墨で描いた線が、何者かによって消された。
学校から海へと下った商店街。その近くにあるアパートの一室で、私はそのことに気付いた。
消えた線は、どこだろう?
四畳半の畳部屋で、こたつ机に向かいながら考える。机の上には、学校の資料と湯呑みが載っている。来週の授業をどう進めるか、過去のノートを見返しながら、計画を立てている最中だった。
波刈神社。
記憶をたどり、そこに引いた線だと特定する。それも、末代が施した、文字縛りの結界の中だ。そのことの重大さに、私は緊張する。
何者かが結界を破り、偽剣の安置場所に侵入した。すぐに対応しなければならない。私は手を伸ばして、コンセントに接続していたスマートフォンを手に取る。アドレス帳から、朱鷺村さんを選んで、出てくるのを待った。
「はい、朱鷺村です」
夜遅くだが、声はしっかりしている。この時間に、私から連絡があったということで、事態の深刻さを認識しているのだろう。
「朱鷺村さん。波刈神社の偽剣を安置してある場所の結界に、何者かが入ったみたいなの」
「分かりました。すぐに向かいます。先生は、どうされますか?」
「車で向かうわ」
「慎重に運転して、事故を起こさないようにしてください」
「はい、分かりました」
確かにそうだ。私は思わず敬語で返事をする。朱鷺村さんの言うように、慌てて運転して、事故になったら大変だ。
私は電話を切り、外に出るために、何を着ていくか考える。さすがに、ジャージ姿で出ていくのは、気が引ける。洗濯かごに入れた服を着ていこうと思い、急いで着替えを始めた。
「忘れないように、持って行かないと」
机の上に置いた小袋を手に取り、首から提げて、服の下にしまう。中には霊珠が入っている。その虹色の姿を想像しながら、私は自分が授かった能力について考える。
白墨。
いわゆる、黒板に白い線を引く、チョークのことである。七年前、初めて霊珠を前にして、心を一点に集中した。その時、私が目にしたのは、幼年時代の思い出だった。
小学一年生の私は、夕日が景色を染める中、アスファルトの道路に向かっていた。右手には一本のチョークがあり、左手には図書館で借りてきた数学の本があった。
その頃、私は、グラフを描くことに熱中していた。数式に値を入れると、座標が定まる。値を細かく変えていき、点を連ねることで、直線や曲線を紡ぎ出す。それは、幼い私にとって、魔法のような驚きだった。わずか数文字の式が描き出す、不思議な世界。
私はその魅力に取り付かれて、地面に縦軸と横軸を取り、様々な線を引いていた。
そういった私に、友人はいなかった。同い年の子供たちの関心は、別の方面にあった。テレビの人気番組や、おもちゃや、ゲーム。私のように、数学の本を片手に、その計算とグラフの描画を楽しむ者は、周囲にはいなかった。
その日私は、いつものようにグラフを描いていた。チョークの線は、螺旋を取りながら発散していく。それは無限の宇宙を感じさせる、素晴らしい曲線だった。
夕焼け空の下、子供たちの声が聞こえた。その声は波のように押し寄せて、私の螺旋を踏みにじった。寄せては返す波が、砂浜の文字を洗うように、子供たちの靴は、チョークの描線を途切れさせる。
数式から導き出された、調和の取れた世界は、カオスに飲み込まれるように、法則性のない破線に変わっていく。
「私の線を消さないで!」
声を聞いた子供たちは、不思議そうな顔をして、私の顔を見た。彼らは、奇妙なものを見るような目で、私を眺めたあと、笑い声を上げながら、長い影とともに去っていった。
その日私は、人は、他人と感動をともにできないことを知った。人間の心は決して交わらず、交点を作らないと悟った。切断された白墨の線は、傷付いた私の心の象徴だった。その切れ目は、切り傷のように、私に痛みをもたらした。
霊珠で見た光景は、そういった私の心の原風景だった。
私は白墨の能力を得た。その力は、戦いに直接使えるものではなかったが、様々に応用できるものだった。この島の変化を感知するために、私はその能力を使っている。
休日のたびに、島の各所に赴き、霊の白墨で線を描く。その線を踏み消せるのは、霊的な存在だけである。死霊や、霊珠を持った人間だけが、白墨の線を消すことが可能だ。そして、線が切断されると、私は痛みを感じる。線は、私の心だから。私の心の象徴だから。
財布と車の鍵をポケットに入れて、玄関に向かう。四畳半二間の部屋なので、すぐに扉までたどり着く。外に出て、駐車場に向かう。軽自動車に乗り込み、エンジンをかける。
波刈神社で何が起きているのだろう。嫌な予感がした。昨日、新入生たちが襲撃を受けた件と、関係があるのかもしれない。
「弥生、あなたが仕組んだことなの?」
高校時代の友人、学校でのかつての同僚の名前を口にする。
「なぜ、あなたは私たちを裏切り、殺人鬼たちを派遣したの?」
再び会うことができれば、聞いてみたかった。
フロントガラスの向こうの闇は答えない。弥生は闇球を使う。彼女が、ふらりと暗がりから出てきて、私の疑問を解消してくれればよいのにと思った。
夜の闇の中、車は道を走っていく。海沿いの道路に出た。視界の先には、波刈山が見える。
「あっ」
体が跳ね、私は声を上げた。車が路肩に乗り上げていた。急いでブレーキを踏み、歩道の街路樹の直前で停止する。また、やってしまった。朱鷺村さんに、呆れた目で見られるのだろうな。私は、先生の威厳というものを考えながら、車の様子を確かめる。
どこにも問題はなさそうだ。ほっと胸をなで下ろす。のろのろ運転で向かった方が、よさそうだと反省する。
「安全運転、安全運転」
念仏のように唱えながら、制限時速よりも遅い速度で、私は夜の道を進んでいった。