第158話「GJ」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、なかなかよい働きをする者たちが集まっている。そして日々、互いの活動成果を褒め称え合っている。
かくいう僕も、そういった素晴らしい結果を残す系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、ワーカホリック気味な面々の文芸部にも、どっしり構えている冷静な人が一人だけいます。ブラック企業の中に紛れ込んだ、白馬の女騎士。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、ととととと、と歩いてきて、僕の横にちょこんと座る。先輩は楽しそうに、僕に目を向ける。その目の輝きを見て、僕は先輩からの信頼と尊敬を感じる。これまで積み上げてきた、数々の受け答え。その結果が、先輩の僕への評価に繋がっているのだろう。よし、今日もがんばるぞ。そう思いながら、僕はにこやかに声を返した。
「どうしたのですか、先輩。初めて見る言葉が、ネットにありましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネット利用の上級者よね?」
「ええ。ネット内限定の人生のレベル上げに、卓越した人間です」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、いつでも書き進めるためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、無限とも言える文章のストックに遭遇した。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。
「GJって何?」
ああ、英語の略語は、元の形を想像しにくいですよね。
僕はそう思いながら、GJの原形を頭の中で思い浮かべる。GJは、Good Jobの略である。元々英語にある言葉で、よくやった、がんばったね、お疲れ様といった感じの意味である。
今回は楽勝だな。そう思い、僕は口を開こうとする。しかし、その寸前に、自分の警戒心のなさに気付き、動きを止めた。
僕は、何て学習能力がないのだろう。こういった危険のなさそうな単語の紹介で、何度危地に陥ったことか。この手の、問題のなさそうな言葉こそ危険なのだ。その後、楓先輩に、危ない質問を投げかけられるのだ。
僕は、華麗なる危機察知能力を発揮して、全身を全方位レーダーのように緊張させながら、説明を開始した。
「楓先輩。GJは、Good Job、グッジョブの略です」
「英語なの?」
「そうです。元々英語にある単語で、でかした、よくやった、といった感じの意味の言葉になります」
「その英単語が、なぜ日本でネットスラングのように使われているの?」
「ええ、元々は英単語なので、ネットスラングというのには語弊があります。この言葉が、ネットで多く使われ出したのには、切っ掛けがあります。
『北斗の拳』で有名な原哲夫の作品『蒼天の拳』で、『グッジョブ張!!』という台詞が掲載されました。ちなみに、張は人の名前です。このグッジョブのフレーズが、ネット掲示板で人気になり、繰り返し用いられるようになったのが、定着の原因だとされています。
何でもないような言葉が、頻繁に書き込まれることで、定番フレーズになる。そして、ネットをよく見る人間たちの間で、合いの手のように利用される。ネットスラングには、そういったケースもあります。
このグッジョブは、GJとも略されるようになりました。そして、親指を立てながら相手を褒め称えるアスキーアートや、顔文字も作られました。
その後、アニメなどにも普通に登場する表現になり、ネットを飛び出して広く使われるようになりました。また、GJ部と書いて、グッジョぶと読むライトノベルも出て、アニメ化されたりといった、展開を見せています。
これが、GJについての説明になります」
僕は、GJの話を終えた。楓先輩は、なるほどといった顔をして感心している。これですんなりと解決すればよいのだが。そうならない可能性もある。僕は、そのケースを想定して身構える。
「GJって、そういった経緯で、ネットで多く使われるようになった言葉だったのね。ネットにどっぷりとはまっているサカキくんは、他の人にGJと呼ばれたりしたことはあるの?」
「もちろんです」
「じゃあ、最近、サカキくんがGJと呼ばれたエピソードを教えてちょうだい」
「ええ、分かりました!」
僕は、記憶を検索して、GJと声をかけられた事案を探す。
あった! 僕はその話を口にしようとして凍りつく。うわあああああ。これは地雷ですよよよよよ。僕はガクブルの状態になりながら、その時のことを思い出す。
あれは、先週末のことである。僕は、ネット掲示板の、とあるスレッドに張り付いていた。そのスレの名は、フェティッシュ百景というものだ。様々なフェティシズムを感じさせるシチュエーションや、萌える設定を書き込み、その内容に共感した人のGJの数で、スレ内のランクが決まるというものだ。
そのスレを発見した僕は、ドクターFという名前で参戦した。そして、わずか半時間ほどの間で、数々のGJを獲得して、スレの住人たちを、どよめかせたのである。
ちなみにドクターFのFは、フェティシズムであり、フューチャーであり、ファンタスティックである。僕は、フェティッシュ百景の新進気鋭の論客として、降臨したのである。
そんな僕の三十分ほどの栄華にも、凋落の兆しが現れていた。そのスレの古参メンバーである、聖☆東朔という人物が現れたのである。
そのハンドルネームの元ネタは、性倒錯という、フェティシズムの日本語訳である。また『聖☆おにいさん』を想起させる軽やかな名前は、彼の言語センスの高さを想像させた。
いつしかそのスレは、僕こと新参のドクターFと、古参の重鎮である聖☆東朔との一騎打ちになっていったのである。
「くっ、やるな。この男」
僕は、聖☆東朔の書き込みを見て、思わずうなる。時は深夜。場所は自室。暗がりにつけたモニターの前で、僕はアニメの主人公のようなポーズを取る。
聖☆東朔は、確かな実力者だった。彼は、僕の繰り出すシチュエーションと、がっぷり四つに組み、針の穴を通すような攻撃を繰り出してくる。
僕と聖☆東朔との戦いは、「細かすぎて伝わらないフェティシズム選手権」といった様相をていしてきた。
僕は、キーボードを華麗にさばき、魂の文字を打ち込む。
――三つ編み眼鏡の女子中学生が、自分の貧乳を気にして、ぱっと胸に手を当てる。
それは、フェティシズムというよりは萌えである。僕は、自分のゾーンに敵を引きずり込み、戦いを有利に導こうとする。
画面にGJが並ぶ。僕はあえて、ストライクゾーンの狭い攻撃を繰り出した。その結果、GJの数は、それ以前よりも減った。しかしその代わりに、絶大なる賛辞の言葉が添えられる、濃縮状態になった。
行ける。勝ったな。僕は、相手の背中が、すすけているのを感じる。
数十秒して、今度は聖☆東朔の文章が投下された。
――低身長、童顔、ボブカット、眼鏡っ娘の新人女先生が、スカートスーツ姿で、「みんな、授業を聞くように!」と、必死に生徒に訴えている。
歓喜のGJが投稿される。
な、なかなかやるな。僕は息を飲む。萌えにシフトした僕の戦いに、聖☆東朔はすぐに追随してきた。敵は、様々な戦いの技術を身に付けているようだ。
そして繰り出した攻撃から、敵の守備範囲が分かった。どうやら、聖☆東朔の得意分野は、ロリっ娘女教師らしい。三つ編み眼鏡女子中学生の僕とは、違う感性の萌え使いのようだ。
ロリっ娘女教師V.S.三つ編み眼鏡女子中学生。
これは負けるわけには、いかない戦いだ。楓先輩の騎士たる僕が、この戦いでおくれを取ってどうする。僕は、脳みそに激しいしわを寄せながら、次なるシチュエーションをひねり出す。
――三つ編み眼鏡の女子中学生が、窓際で本を読みながら、ぱっと明るい顔をして、嬉しそうに口元をほころばせる。
先ほどよりGJの数は減った。しかし、反応の濃度は高まった。
中学時代の記憶を、縷々と書き込む六十代の男性。学生時代を泣きながら振り返る、三十代ニート男子。「あの当時の反動で女装に目覚めました」と告白する、謎の四十代サラリーマン。
彼らの赤裸々な書き込みは、僕の繰り出したシチュエーションの、破壊力を物語っていた。
二分ほど経った。前回より反撃が遅い。これは、考えているな。僕は、敵である聖☆東朔が、崖っぷちに追いやられていることを感じる。これは勝てる! 僕は勝利を確信する。その喜びの直後、書き込みが投下された。
――低身長、童顔、ボブカット、眼鏡っ娘の新人女先生が、学校のことで落ち込んで、飲み屋で飲んで、泣き上戸状態になっているところに出くわす。
くっ、何とアダルティーな。そして、エロマンガ的なシチュエーションなんだ。僕はその後の展開を予想して、鼻血を噴きそうになる。
スレには、GJ、GJ、萌え、萌え、と言葉が並ぶ。そして、それぞれ、大好きな女性教師物のシチュエーションを語り出す。
ぐぐっ。僕は、モニターの前で拳を握る。僕の書き込みは、人々に過去を語らせた。聖☆東朔の発言は、人々の創作意欲を刺激した。いったいどちらが上なのか。
その答えは分からないが、より強い反応を引き出したのは、聖☆東朔の方だ。さすがだな。伊達にフェティッシュ百景のスレに、初期のことから常駐しているわけではないようだ。
これは厳しい戦いだ。僕は、聖☆東朔に勝てる、三つ編み眼鏡女子中学生の場面を、脳内で検索する。
僕は、脳内のカードをドローする。
僕のプライド、そして僕の魂! 僕の未来は、僕が決める!
聖☆東朔、貴様に見せてやる。僕のプライド、僕の魂を受け継ぎしシチュエーションの姿を!
出でよ、眼鏡アイズ、ブラック三つ編み! これが僕の未来だ。
行け、眼鏡アイズ、ブラック三つ編み! 未来を切り開け。
滅びのバーストストリーム!!!!!
――三つ編み眼鏡の女子中学生が、僕に寄り添って、笑顔で僕を見上げてくれる。
僕は、切り札を出した。ぼくにとって最高のシチュエーション。これ以上ないという、究極の萌え形態だ。
スレに動きはなかった。画面がGJで埋めつくされると思っていた僕は、首をひねる。その直後、書き込みが殺到した。
――ねえわ。
――何それ、その非現実的、妄想展開は。
――もう少し現実を見ましょう。
――あり得ない。そんな青春が、僕の学生時代にあるはずがない。
――それはない。
――夢は、寝ている時だけ見てください。
――うらやまけしからん。
――プゲラ。
僕を否定する言葉が、怒涛のように流れてきた。
ええ~~~。だって、これ、僕の日常のシチュエーションですよ~~~~!!!
スレは、僕を罵倒する展開に変わる。僕はそのスレを、悲しい気持ちで、そっと閉じた。そういったことが、先週末にあったのである。それは、心が生温かくなるエピソードだった。
「ねえ。最近、サカキくんがGJと呼ばれたエピソードを教えてちょうだい」
僕は、先輩の言葉に気付いて顔を上げる。そうだった。そういう話だった。僕は、部室に意識を戻す。そして、引きつった笑顔を浮かべて、どう答えるか考える。
「えー、楓先輩の素晴らしさを訴えて、GJと言われました」
途中まではそうだったから、それでいいよね!! 僕は、心の中で震え声を出す。
と、とてもではないが、詳しい話はできない。もしするならば、フェティッシュ百景というサイトに、なぜ僕のような中学生が出入りして、ドクターFと名乗っていたか、事細かに説明しなければならない。それは、辛い。もうやめて、僕のライフはゼロよ!
僕は、引きつった笑顔で、楓先輩の反応を待つ。
「そ、そうなの?」
先輩は、ドギマギした顔で、もじもじとしている。どうやら、僕が陰で先輩のことを褒めていたことが嬉しかったようだ。
ふっ。日頃の善行が実を結んだようだな。僕は、因果応報というのはあるのだなと思い、胸を張って、その時のことを語りだす。
「そうです。僕は、フェティッシュ百景というサイトで、先輩の素晴らしさを、高らかに主張しました!!!」
「えっ? フェティッシュ百景……」
楓先輩は、ドン引きした顔をして、僕から距離を取った。あ……、やらかしてしまった。
それから三日ほど、文芸部での僕のあだ名は、フェティッシュ・サカキになってしまった。ううっ、何ですかその名前は。
僕は「名は体を表す」の言葉の通り、楓先輩の体のあらゆるパーツを、エッチな視線で眺めながら、その三日間を過ごした。