第156話「濡れた」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、水難の相が出ている者たちが集まっている。そして日々、雨に降られたり、水たまりにはまったりしながら暮らしている。
かくいう僕も、雨男を疑われている系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、ずぶ濡れ気味の面々の文芸部にも、おひさまを浴びた干し草のような人が一人だけいます。妖怪濡れ女に取り囲まれた天照大神。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は体を向ける。楓先輩は、ととととと、と駆けてきて、僕の横にちょこんと座る。僕は、先輩の姿を見下ろす。先輩は、音が出そうな感じでまばたきをして、笑顔を見せた。ああ、何て素敵な笑顔なのだろう。それだけではない。小さくて、細くて、可愛らしい体は、僕のストライクゾーンだ。僕は、そんな素敵すぎる先輩を間近に見ながら、声を返す。
「どうしたのですか、先輩。未知の言葉を、ネットで見かけましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの精鋭よね?」
「ええ。アメリカ海軍の特殊部隊、ネイビーシールズの隊員のように、ネット特殊部隊の隊員です」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、いつでも書き直すためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、情報のサルガッソ海に迷い込んだ。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。
「濡れたって何?」
はい? 僕は、聞き間違えかと思って聞き直す。
「ネットでね、時々、濡れた! って、騒いでいる人を見るのよ。その人がいる場所で、突然雨が降ってきたのかな、それとも水道管が破裂したのかなと、私、心配になるの。
でも、かなり頻繁に見るから、もしかしていつものネットスラングじゃないかなと思って、サカキくんに尋ねてみようと思ったの」
え、ええと。それは、ネットスラングというよりは、エロスラングですね。でも、ネット以外の場所で、そんな言葉を使う人はほとんどいないので、ほぼネット限定の用法と言ってもよいですね。
濡れたは、ネット発祥の言葉でもないし、ネット独自の用語でもない。だから、ネットスラングをまとめたサイトにも、特に記述はない。もしウィキペディアに書き込めば、独自研究と警告されるような内容である。
だが、現実にその言葉は、ネットでちらほらと目にする。そう。濡れたという言葉は、女性の秘部が潤いを帯びることを指す。
男前な行為や台詞に、胸がキュンときて、思わず乙女のように頬を染め、女性の子孫を残したい本能を刺激する。そんな感情を抱いた時に、思わず書き込むのが、濡れたという言葉である。
この言葉は、男女問わず使用する。自分の姿や性別をさらさない、ネットならではの掛け声と言えるだろう。
とはいえ、そんなことを、赤裸々に楓先輩に語るわけにはいかない。「楓先輩も、濡れたりするのですか?」などと尋ねれば、明日から僕の居場所は、この文芸部にはなくなるだろう。
あまりにも危険な言葉。僕を死地へと向かわせるデスワード。これは全力で回避する必要がある。どうするか? 僕は、知謀をつくして作戦を練り上げる。外堀から埋めていく。これしかない! そう思い、口を開いた。
「楓先輩。三十八億年前に、時計の針を戻します」
「えっ?」
楓先輩は、驚いた顔をする。当然だ。濡れたという言葉と、三十八億年前という時間軸。その落差に、先輩は、一瞬思考が止まったことだろう。
僕の話を楓先輩に、卑猥だと感じさせないためには、大いなる飛躍が必要だ。僕はその話の端緒を、生命の誕生から始めることにする。
「現在、地球上にいる生き物は、約三十八億年前に自然発生した生物が、多様な進化をしたものだとされています。この原初の生物は、今は存在しておらず、三つの系統に枝分かれしました。最初に真正細菌が分かれ、のちに古細菌と真核生物が分岐しました。
動物や植物、菌類といった、僕たちに馴染みの深い生物は、真核生物に属します。人類も真核生物です。この真核生物には、真正細菌や古細菌にはない特徴が三つあります。
真核生物の特徴の一つ目は、エンドサイトーシスの獲得と細胞内共生です。エンドサイトーシスは、細胞が他の細胞や物体を取り込むメカニズムです。
真核生物の誕生当時は、地球に酸素が増大した時期でした。真正細菌の中で、光と二酸化炭素から酸素を生み出す種たちが、地球環境を作り変えたのです。
真核生物は、エンドサイトーシスの仕組みを利用して、この環境に対応します。酸素を使ってエネルギーを得る真正細菌を、体内に取り込み、共生を始めたのです。この共生相手は、のちにミトコンドリアになります。
また、植物や一部の藻類では、光合成をおこなう真正細菌、シアノバクテリアを取り込んで葉緑体としました。ミトコンドリアや葉緑体に、独自の染色体があるのは、こういった過去があるからです。
真核生物の特徴の二つ目は、有性生殖の獲得です。これまでの生物では、染色体を単純に複製して細胞分裂をしていました。この方式では、新たに生じた個体は、以前と同じ染色体を持っています。
対して有性生殖をおこなう生物では、染色体は同種のものが重複した二倍体です。この二倍体の染色体を減数分裂して、他の個体と染色体を交換します。
性の誕生です。
この性は、雌雄といった二性である必要はありません。単細胞生物の中には、ゾウリムシのように複数種類の性を持つものも存在します。そして、精子や卵子を作らず、接合して直接染色体を交換します。
性別というものは、そういったところから始まり、現在の人間などで見られる二性の形式が、大きな成功を収めました。
では、この有性生殖は、生物にとってどのように有利なのでしょうか? そのために、把握しておかなければならないのは、分子進化の中立説と呼ばれる考え方です。遺伝子には、絶えず様々な場所で変化が起きており、そのほとんどは生命にとって何の影響も与えない、中立の変化になります。
無性生殖では、遺伝子の変化の結果、それが生存に不利な場合は、その個体は高い確率で死にます。また、分裂して増えた個体は、基本的に同じ遺伝子を持っているので、災害や災厄によって、まとめて死滅するリスクがあります。
対して有性生殖は二倍体であり、そのうちの片方がまともなら大丈夫です。つまり、変化を許容する範囲が広いわけです。そして、変化を蓄積した遺伝子を減数分裂して、他の個体と組み合わせることで、様々なパターンの個体を生み出せます。
このように、有性生殖を始めた生物は、同種の中で多様な個体を作れるために、環境変化への適応力が高くなっているのです。
そして真核生物の特徴のラストは、多細胞化です。真核生物の大部分は、他の二種と同じく単細胞生物です。
しかし、この単細胞生物は、多様性において限界があります。多細胞になることができれば、その多様性は飛躍的に増大します。そういった多細胞化への変化の始まりは、有性生殖から敷衍したものと考えることができます。
生殖細胞と体細胞の分化。そして、多細胞化による生殖細胞の保護。
大きくなれば、その分、生存競争は有利になります。さらに、各細胞に異なる機能を割り振れば、複雑な機能を持った体を作ることができます。
このような三つの特徴を備えた真核生物は、爆発的に複雑さを増していき、圧倒的な速さで進化していきました。
この進化は、意志を持っておこなわれた変化ではなく、様々なパターンに対して、時間のふるいによって選別された、結果でしかありません。
その過程で、雌雄は非対称になり、卵子は大きくなり、精子は小さくなりました。また卵子を覆う卵には、個体発生のスタートダッシュを可能にするために、初期の栄養素が大量に蓄積されて、殻も作られました。
真核生物は、どんどん新しいタイプの生物を生み出していきました。その過程の中で、母親の体内で受精させるという方式も一定の成果を上げました。そう、僕たち人類は、そういった進化の過程の中で、セックスという行為をしているのです」
僕は高らかに、人類の性行為の名称を口にする。
壮大な生命の歴史。その話を、圧倒的な密度で語ることで、僕は楓先輩を、完全に生物学の世界に没入させた。
「すごい。すごいね、サカキくん。理科のテストはいつも一桁台なのに!」
「ええ。雑学は別腹ですから」
感動するべきところは、そこですか。僕は思わず突っ込みを入れそうになりながら、ぐっとこらえる。ともかく、先輩は興奮している。よし、この勢いで説明に突入だ。僕は、熱いパトスで語りだす。
「爬虫類や鳥類では、ある程度のサイズまで卵を育てて、産卵するという方式を発展させました。哺乳類では、母親が子供を胎内で大きくして、出産するという方式に切り替えました。どちらの生物の場合でも、体内で受精する際には、雄が雌に性器を挿入する必要があります。
こういった体内受精と性器の挿入は、昆虫や軟体動物など、様々な動物でも見られます。しかし、この話の主眼は人類です。ここからは、人間の女性に話を限定して進めていきましょう」
「うん、分かったわ」
先輩は、拳を可愛く握りながら答える。僕は、その様子に勇気をもらいながら、説明を続ける。
「普段は、外敵の侵入を防ぐために閉じている、女性の性器。そこに男性が、性器を挿し入れる。その行為を円滑にして、女性の体にダメージを与えないためのシステムの一つが、濡れるという現象です。
女性の性器は、性行為の際に、バルトリン腺液やスキーン腺液、子宮頚管粘液などにより、潤いを得ます。これらの粘液は、性器の損傷を防ぐための潤滑剤となります。また平時には、陰部を清潔に保つ役割を果たします。それだけでなく、これらの液体は、性的に興奮した時にも分泌されるのです。
ネットでたまに使われる、『濡れた!』という書き込みは、この現象を指しています。
思わず惚れてしまうような人を見た、そういった話を聞いた。その際に、『キャー、抱いて、何々さん~~!』と黄色い声を上げる。この胸キュンを、アダルトに表現したのが、『濡れた』という言葉なのです。
ネットでは、書き手の性別が分かりません。そのため、男であろうと女であろうと関係なく、『濡れた』という表現を使うのです」
僕は、三十八億年の旅をして、濡れたという言葉の説明をした。ここまで遠大な話をすれば、さすがに楓先輩も、卑猥だとは微塵も感じないだろう。僕は自信を持ちながら、先輩の反応を窺う。
「つまり、濡れたは、相手の素晴らしさに、思わず好きになってしまうような時に、使う言葉なのね」
「そうです。また、他人を指して、『何某は濡れたな』などと書くと、性的に興奮して下半身を濡らしているだろうな、という書き込みになります」
「なるほど。女性の生理現象を利用した、興奮の表現なのね」
「その通りです。ちなみに僕は男性なので、そういった現象がどの程度起きるのかは、さっぱり分かりません。しかし、女性である楓先輩には、身に覚えがあるかもしれません。先輩は、そういった感じで、濡れたことはありますでしょうか?」
「えっ?」
楓先輩は真顔になり、僕のことを蔑んだ目で見た。
……あっ。調子に乗ってしまった。
僕は、いらぬ一言を告げてしまったことに気付く。エッチな話が苦手な先輩に、濡れたか聞いてどうするんだ。説明の前に、それは全力で避けなければならないと、考えていたではないか。
僕は、自分の脳みその拙さに、絶望的な気分になる。
「サカキくんの、エッチ~~~~~~~~~~~~~~~~!!!」
赤面した楓先輩は、僕にグーパンチを放って、ぱたぱたと逃げていった。
それから三日ほど、雨の天気が続いた。部室で、濡れたという言葉が出るたびに、楓先輩は顔を真っ赤にして、もじもじとした。僕はそんな先輩を愛おしいと思いながら、その三日間を過ごした。