第155話「テクノブレイク」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、手仕事に長けた者たちが集まっている。そして日々、おのれの技を高めるために精進し続けている。
かくいう僕も、そういった指さばきが巧みな人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、ファンタスティックな手を持つ面々の文芸部にも、そういったことには興味のない人が一人だけいます。ゴッドハンドたちのオフ会に紛れ込んだ聖女様。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は体を向けた。楓先輩は、ととととと、と歩いてきて、僕の横にちょこんと座る。先輩の体温が服越しに伝わってくる。僕はその温度を、喜びとともに感じる。肌と肌が触れ合わなくても、僕は先輩のぬくもりを感じています。そしていつかは直接触れる日を待ち望んでいます。そんな未来の妄想に、鼻血を出しそうになりながら、僕は楓先輩に声を返す。
「どうしたのですか、先輩。知らない言葉を、ネットで見つけましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの達人よね?」
「ええ。クラフトワークが、電子音楽の世界を切り開いたように、僕はネットの世界を切り開いています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、精力的に書き進めるためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、広大な知の世界に足を踏み入れた。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。
「テクノブレイクって何?」
ぶほっ! 何という言葉を、先輩は拾ってきたのだろう。このテクノブレイクは、何かの必殺技の名前ではない。ネットスラングの中でも卑猥なジャンルに属するものだ。元々嘘ニュースから発生した偽医学用語で、エア腹上死を意味する。えー、つまり、一人で性的な行為をし過ぎて、心臓発作で昇天するという現象だ。
この用語を先輩に説明するには、男性の日々の造精管理活動について語らなければならない。それは、過剰在庫をいかに処分するかという、企業の在庫管理活動に似たものだ。全人類の半分は、その在庫管理を円滑におこなうためのコンテンツ収集に、血道を上げている。
しかし、そんなことをストレートに楓先輩に語るわけにもいかない。どうすればいいんだ。僕が悩んでいると、部室の片隅で、「ガタン」という誰かの立ち上がる音が響いた。
「うん?」
僕は声を出しながら顔を向ける。そこには、僕と同じ二年生の、鈴村真くんが立っていた。鈴村くんは、何か言いたそうな顔で、頬を赤らめて、僕の方を見ている。いったい、どうしたのだろう。僕はその理由を考える。
鈴村くんは、華奢な体に、女の子のような顔立ちの男の子だ。そんな鈴村くんには、他人に隠している秘密がある。
実は鈴村くんは、女装が大好きな、男の娘なのだ。鈴村くんは家に帰ると、女物の洋服を着て、等身大の姿見の前で、様々な可愛いポーズを練習している。そして、女の子の格好をする時には、「真琴」という女の子ネームに変わるのだ。
僕は、その真琴の姿を、これまでに何回か見たことがある。その時のことを頭に浮かべながら、鈴村くんの姿を見た。
「どうしたの、鈴村くん」
「そ、その言葉は、今日の昼……」
今日の昼? 何かあったのだろうかと、僕は考える。えーと、数時間前のことを思い出すのは、なかなか大変だ。雑学なら、いくらでも記憶を蘇らせられるのに。僕は、混乱した脳内情報ハイウェイから、今日の昼の出来事を探し出す。
今日の昼休みのことである。僕はいつものように、スマートフォンで情報収集をしていた。ワールドワイドに活躍するビジネスマンも真っ青な、情報感度。その敏感すぎるアンテナで、僕はネットの淫猥な情報を、底引き網漁船のように漁っていたのである。
「ねえ、サカキくん」
クラスでも、男子の人気ナンバーワンの鈴村くんが、僕に声をかけてきた。
「何だい、鈴村くん」
僕は、エロ情報サイトを華麗なタッチで消しながら、鈴村くんに声を返す。
「相談があるんだ」
「どんなこと?」
「ネットのことについてなんだけど」
「それならば、僕の得意分野だね」
「誰もいないところで、……そう、屋上で、話を聞いて欲しいんだけど」
「いいよ。食事も終わっているし、仕事も一段落ついたところだったから問題ないよ」
僕は、笑顔とともに答える。
「それじゃあ、サカキくん。一緒に屋上に行こう」
鈴村くんは、僕の手を引いて立ち上がらせる。そして、そのまま僕の手を握って、屋上に向かった。
屋上に着いた。僕たち二人以外、誰もいない。こういった改めた場所では、たいてい女装の話を、鈴村くんは切り出す。今回はどんな話だろうと思いながら、鈴村くんの話を待った。
「実は最近、心配事があるんだ」
「どんなことなの? 僕で力になれることなら、力になるよ」
僕の返事を聞き、鈴村くんは嬉しそうな顔をする。その少女のような可憐な表情に、僕は少しだけドキッとしてしまう。
「ねえ、サカキくん。僕も男子だから、いろんなものに興味があるんだ。だから、いろいろと調べて、時には実践したりしているんだ」
鈴村くんは恥じらいながら僕に言う。いったい何のことだろう?
「それで、ある現象の存在を知って、だんだん怖くなってきたんだ」
よく分からないけど、恐ろしい何かに出くわしたようだ。どんなジャンルの話なんだろうか。僕は鈴村くんに質問する。
「ねえ、鈴村くん。その現象の、触りだけでも教えてくれないかな」
「テクノ……」
鈴村くんは恥ずかしそうに言う。
テクノかー。ということは、音楽の話かな。テクノならば、女子よりは男子のファンの方が多いだろう。実践もしているということは、打ち込み音楽とかをしているのかもしれない。それなら僕も、たまに初音ミクを利用して謎音楽を作り、動画サイトにアップしている。
そうか、鈴村くんはテクノを愛好して実践しているのか。しかし、ある現象の存在って何だろう? 怖いことのようだし。
僕は、拙い知識を探って、それが何なのかを想像する。日本人にとって、テクノといえばイエロー・マジック・オーケストラ、通称YMOだ。YMOには坂本龍一がいる。坂本龍一といえば反原発。な、何だってー! もしかしたら鈴村くんは、原発の不都合な真実を発見したのかもしれない。
僕は、ごくりと唾を飲み込んで、鈴村くんに尋ねる。
「す、鈴村くん。それは何か、力を生み出すものに、関係しているんじゃないかな?」
「精力ってこと?」
「いや、勢力というよりは動力じゃないかな」
「つまり、ものを動かす原動力ということ?」
「うん」
「確かに、それによって動く人は、多いと思う。そういった意味では、原動力ということで正しいと思うよ」
やはりそうなのだ。電気を生み出す原子力発電所。その恐ろしい側面を、鈴村くんは知ってしまったのだ。
「ねえ、鈴村くん。もしかして、その影響によって、死人が出たりする話なのかな?」
鈴村くんは、驚いた顔をする。
「さすがだね、サカキくん。それは、人を死にいたらしめるらしいんだ。
普段あまり報道はされていないけど、そのせいで死んだ人間は、実はたくさんいるんじゃないかと、ネットには書いてあったんだ」
や、やはりそうだ。恐るべし、ネット情報。
僕は考える。鈴村くんが心配しているということは、何か身近で異変でもあったのだろうか? もしそうなら、その内容を確かめておいた方がよいだろう。
「鈴村くんは、その影響を恐れているの?」
「うん。僕も死ぬんじゃないかと少し不安になって。だって、僕やサカキくんにとっては日常的なことでしょう。それなしでは、おそらく生活できないわけだから」
当然だ。電気なしでは生活は困難だ。しかし、いったい鈴村くんは、どんな事実を知ったと言うのだ? いや、それはデマかもしれない。ネットデマ鑑定士である僕の目には、偽りと分かる内容かもしれない。これは確かめて、その真贋を暴かなければならない。僕は、核心に踏み込む質問をしようと決める。
「鈴村くん」
「うん」
「教えて欲しいんだ。その……」
「僕こそ、それが本当かどうかを、サカキくんに教えて欲しいんだ」
「原発のことを」
「テクノブレイクのことを」
……うん? テクノブレイク??
それって、オナニーのやり過ぎによる突然死を指す、ネットスラングですよね。鈴村くんが不安がっていたのは、原発のことではなく、自慰過剰により心臓が限界を迎えることだったのですか?
「……あ、あの、鈴村くん?」
「うん」
「鈴村くんが言っているのは、あのテクノブレイクのことだよね?」
「やっぱり、サカキくんも知っているの?」
「ま、まあね。ネットスラングは、僕の研究対象だからね。それで鈴村くんは、その、例のあれを、やりすぎているの?」
鈴村くんは、顔を真っ赤にして顔を逸らした。えっ。今までの話の流れで、恥ずかしがるタイミングはそこですか? 親友の僕に、自慰の相談をしておきながら、回数が多いか尋ねられて赤面するのですか? テクノブレイクは、そもそもそれが原因で死ぬという、ネット都市伝説的な用語ですよ。
「う、うん。よく分からないけど、少し回数が多いかもしれないなあと」
「ぼ、僕より多いのかな?」
僕は、興味があったので尋ねる。
「僕、サカキくんの回数を知らないから」
「そ、そうだよね。僕も、鈴村くんの回数を知らないから、何とも言えないよねえ」
駄目だ。僕は何を話しているのだ。そんな僕の混乱をよそに、鈴村くんは話を続ける。
「ねえ、サカキくん。思春期の男子は、多いって言うよね」
「世間一般には、そうだと思うよ」
「僕たちの回数は、世間的に見て多いのかな少ないのかな?」
「ど、どうだろうね。統計情報を見てみないと分からないけど。でも、統計情報が役に立つかは疑問だよね。みんな本当のことは言わないと思うし」
「そうだよね。アンケートに信頼性はないよね」
「だから、正確な回数は、分からないんじゃないかな」
僕の答えに、鈴村くんは真剣な顔をする。
「そうなんだ。回数については、どの情報が正しいのか分からないんだ。だから、実際にはどのぐらいでテクノブレイクが起きるのか、知ることができないんだ。そういった状態だから、僕は、自分がテクノブレイクにならないかと心配なんだ。
女装をして、それをしている時に死んだら、目も当てられないでしょう。そのことを思うと、おちおちと女装もできないなと思って」
……。
そ、そうか。鈴村くんは、女装オナニーをしているのか。そんな告白を、いきなりされても困るのですが。僕は、どこからどう突っ込んでよいのか分からず、この変態な友人に、どう答えようかと悩む。
「そういえば、サカキくんは、どういった格好でやっているの?」
「え? 普通だと思うけど。少なくとも服装は、普段着だよ」
「そうなんだ。サカキくんは、裸でしているイメージがあったんだけど、違うんだ」
ちょ、ちょっと待った。それはない!
僕は、そんなことはしていない。確かにネットでは、全裸待機という言葉がある。エッチなものの投下を期待して、全裸になって待ち受けるという言葉だ。そういったネット民の用語から考えれば、ネットにどっぷりつかっている僕が、全裸でないのはおかしいと思うだろう。
しかし違う。僕は着衣派だ。着ているからこそエロいと思う系ですよ。僕は自分の変態性癖を、心の中で高らかに叫ぶ。
……だ、駄目だ。脳みそが暴走気味だ。
鈴村くんは、何という魔球を投げてくるのだろう。僕は朦朧として、体の平衡を失った。
「だ、大丈夫、サカキくん!」
鈴村くんは手を伸ばして、僕の体が倒れないように支えた。僕は、美少女にしか見えない鈴村くんに抱きかかえられる状態になる。僕は、鈴村くんの表情を窺う。その顔は、男の娘である真琴のものに変わっていた。
僕は、顔を真っ赤に染めて、真琴を眺める。真琴は妖艶な面差しで、僕にささやきかけてきた。
「僕がテクノブレイクしないように、サカキくんに見守って欲しいんだ」
「えっ?」
それは、どういうシチュエーションですか? 僕は、真琴が鈴村くんであることを思い出す。
鈴村くんがテクノブレイクするかを判定するためには、僕は鈴村くんの行為を観察しなければならない。それはつまり、女性の服装をした鈴村くんが、何かをするのを、全裸正座で待つような状態ということだろうか。
た、確かに僕は着衣派だ。そして鈴村くんは、着衣でこそ、その真の力を発揮する人間だ。
むきゃーっ! もう、何が何だか分からないですよ!!!
その時である。屋上に続く階段から、人の声が聞こえてきた。僕と鈴村くんは、ぱっと離れて、互いにそっぽを向いた。そんなことが、今日の昼休みにあったのである。
「ねえ、サカキくん。それで、テクノブレイクって何?」
楓先輩の言葉で、僕は過去へのトリップから呼び戻される。そして、朦朧とした意識のまま、テクノブレイクについて語り出した。
「テクノブレイクとは、風俗サイトの嘘ニュースが元ネタの、ネットスラングです。そのニュースでは、あたかも医学用語のように、テクノブレイクという言葉を紹介していました。しかし、実際は嘘で、この言葉は造語になります。
では、このテクノブレイクとは何なのか? 端的に言うのならば、男性の自己性欲処理の過剰による心肺停止状態です。先のニュースでは、宮城県在住の男子高校生が、一日に数十回行為におよび死亡したとされていました。しかし、これはネタニュースなので、死亡した男子高校生は存在しません。
さて、では自慰行為で死亡することはないのか? 実は、男性が自慰行為で死ぬという事件は、たびたびニュースになります。有名なところでは、映画『キル・ビル』に登場していた俳優、デヴィッド・キャラダインさん七十二歳が、窒息オナニー中に誤って死亡したという事件がありました。
男性の自慰行為というのは、時にエクストリームな方向に発展していきます。そして、生命の危機すれすれのところで、自慰行為を楽しむ時があります。これは、生命の危機におよぶと性欲が高まることと、何か関係があるのかもしれません。そのために、自慰行為中の変死というのは、報道されていないだけで、そこまで珍しいものではありません。
たとえば『検死ハンドブック』という、法医学者向けの本があります。その感電死の項目には、『自慰行為中の感電死。陰部に通電している場合がある』と書かれており、自殺か事故死か見分ける方法が記されています。
このように男性の自慰行為は、高度になると死と隣り合わせな危険な行為になります。そしてネットでは、そういった死亡報道がなされると、その前人未到の領域に挑んだ男性たちを、畏怖と畏敬の念をもってネタにするという慣習があるのです。
そういった土壌があるために、先のような嘘ニュースが、すんなりと受け入れられて、ネタとして定着していったと思われます。テクノブレイクとはこのように、男性の仕組みとネットの方向性が合致したことで定着した、ネットスラングと言えるでしょう」
僕はテクノブレイクについて説明した。そして、話し終わった頃に、朦朧とした意識から目覚めた。
目の前には、マンガのような白目状態で、体をぷるぷると震わせている楓先輩がいる。そして、少し離れた場所では、その様子を心配そうに見ている鈴村くんがいる。
ああ……。僕は、やってしまいましたか。エッチなネタに弱い楓先輩に、その手のネタをストレートにぶつけてしまいましたか。僕は、どうしようと思いながら、楓先輩を見守る。先輩は僕に顔を向けて、一言つぶやいた。
「サカキくんのエッチ」
あうー、すみません。僕は素直に反省した。
それから三日間。楓先輩は、僕をエッチなサカキくんとして避け続けた。代わりに鈴村くんが、僕を物欲しそうな顔で見ていた。
だから、テクノブレイクしないように、監視したりしませんから! 僕は、どんどん変態度を増していく、鈴村くんの性癖が心配になった。