第144話「ノシ」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、オーバーアクションな者たちが集まっている。そして日々、ギャグマンガもびっくりな、派手な動きをしまくっている。
かくいう僕も、そういった制御できない動きをしてしまう人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、アクティブで挙動不審な面々の文芸部にも、地味でじっとしている人が一人だけいます。道化師の群れに囲まれた、内気なお姫様。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は体を向けた。楓先輩は、楽しそうに歩いてきて、僕の横にすとんと座る。先輩は何の警戒もなく、僕に寄り添って見上げる。その目には、僕への信頼が溢れている。先輩を裏切ってはいけない。僕はそう思いながら、楓先輩に声を返す。
「どうしたのですか、先輩。ネットで、知らない言葉に出会ったのですか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの達人よね?」
「ええ。アニメーターの板野一郎が、板野サーカスを編み出すように、僕はアスキーアートの新しい動きの表現を開発します」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、こつこつ毎日書くためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、これまで見たことのない文字表現に出会った。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。
「ノシって何?」
先輩はその言葉を告げたあと、すぐに台詞を付け加える。
「贈答品に付ける、のしではないことは分かるわよ。ノシは、文章のあとに出てきたり、単体で出てきたりして、ちょっと意味が分からないの」
ああ、そりゃあ意味が分からないよなと僕は思う。このノシの音に意味はない。なぜならばこれは、ある動きを表すアスキーアートだからだ。
そこまで考えたところで、僕ははたと気付く。楓先輩は、普段マンガをたしなまない。だから、マンガ的動きの表現には疎い。そのため、動きの表現である動線も、あまり把握していないに違いない。これは、そういった表現から教えた方がよいだろう。
「先輩。ノシを説明するために、少し写真を撮りたいと思います」
「何の写真?」
「先輩の写真です。僕が、スマホのカメラで先輩を撮影します。だから先輩は、船で旅立つ恋人を見送るように、一生懸命手を振ってみてください」
「うん。分かったけどサカキくん。私には、船で旅立つ恋人はいないよ」
「想像の恋人でよいです。イマジナリーボーイフレンドです。ええと、僕がインドに行くとかでもいいです」
「分かった。サカキくんがインドに行って、永遠の別れになるのね。じゃあ、がんばって手を振るね」
先輩は、手を頭上に掲げ、ゆっくりと振る。ええと、永遠の別れには、ならなくてよいです。僕は、スマートフォンの画面を見る。手の振りがゆっくりすぎる。動きがぼけるほどではない。
「楓先輩。もっと素早く。全力で横に振ってください」
僕は、画面を確かめながら注文を出す。先輩は、目をつむり、必死に手を振る。ぶんぶん、ぶんぶん、ぶんぶん。パシャリ。僕は、写真を撮った。
「はあはあ、サカキくん。こんな感じでいいの?」
「ばっちりです」
先輩は、ととととと、とやって来て、僕のスマホを見る。
「ボケちゃっているね」
「ええ。このように、速い動きをカメラで捕らえると、残像が出るのですね。マンガやアニメなどの表現では、素早い動きを表す際に、こういった残像のように、動きを補完する絵や記号を、差し入れることがあるのです」
僕は、手元のメモ用紙を引き寄せて何種類かの絵を描く。腕のあとに、腕を半透明にしたような残像表現。それを簡略化して、動きの線だけにした動線も示す。それらの絵を見せたあと、ノシという文字を描いて見せた。
|// 残像~!
|⌒/ 動線~!
ノシ
「うん?」
楓先輩は、僕が描いたノシを見て、何か考え込む。そう、書いたではなく、描いただ。
「もしかして、ノシって、言葉ではなく絵なの?」
「そうです。二つのノの間に、動きを表す二本の線が入っているのです。これがノシの正体です」
「なるほど、そうだったのね」
先輩は、感心したような顔をする。
「それでサカキくん。このノシの、意味は何なの?」
楓先輩は、きらきらとした顔で尋ねてくる。僕は、得意げな様子で答える。
「バイバイと手を振っている様子です。あるいは、挙手の動作にも当てられます。単純にあいさつとして手を振っている姿のこともあります。
そういった中でも、最も多いケースは、さようならの動作です。そのため、ノシだけ書いて、ネット掲示板を去る人がいたります。また、ノだけ書いて、ノシの代わりにするケースも見られます。
このノシは、実は省略形です。元々は顔のアスキーアートに付けて、手を振っている動作を示していたものです」
僕は、メモの上に、例としてのアスキーアートを、いくつか描く。
(・ω・)ノシ (*´▽`)ノシ
(´∀`)ノシ (゜д゜)ノシ
「こんな感じで使います」
「なるほどね」
楓先輩は、僕の描いたノシをまじまじと見る。そんなに見られると恥ずかしいですよ。僕の画力に驚いているのですか? それほどまでに素晴らしいものならば、西原理恵子に画力対決を挑むべきかもしれません。
「ねえ、サカキくん」
「何でしょうか、楓先輩」
「このノシ、私も使ってみたいの」
「文章に使うのですか?」
「ううん。会話で」
「えっ?」
僕は、思わず驚きの声を上げる。ノシは絵であって言葉ではない。だから、本来は発音して使うものではない。
「あの先輩、このノシは……」
「サカキくん相手に、練習するね」
先輩は、おひさまのような笑顔を見せる。駄目だ。抗えない。楓先輩に従順な僕は、先輩のノシの練習に、付き合うしかないようである。
「分かりました。ノシの練習ですね」
「じゃあ、サカキくん。部室から帰って。私が手を振るから」
「えっ?」
あの、ちょっと。それはどういう意味ですか? 僕は部室を去らないといけないのでしょうか。えーと、先輩は、僕に帰宅して欲しいのでしょうか。
僕は不安になって、楓先輩の様子を見る。無邪気な顔で、僕を眺めている。どうやら、僕が素直に帰るものだと思っているようだ。ああ、先輩の期待を裏切るわけにはいかない。僕は仕方なく、荷物をまとめて扉に向かう。
「せ、先輩。それじゃあ、僕は帰ります」
「うん。またね、サカキくん。ノシ」
先輩はとても楽しそうに手を振る。ああ、何て邪気のない顔をしているのだ。僕は、にこやかな顔で廊下に出て、扉を閉めた。
先輩のノシは可愛かった。最高だ。……いや、違う。これでは僕は、先輩と一緒にいられない。僕はこっそりと扉を開けて、部室に潜り込む。
「あれ、サカキくん戻ってきたの?」
すぐさま先輩に見つかってしまった。
「え、あの、ええ。戻ってきました」
「じゃあ、もう一度練習だね!」
「ホワッツ?」
僕は、素っ頓狂な声を上げる。先輩は、僕を扉に押しやり、一生懸命手を振り始めた。
「サカキくん、さようなら~~~~ノシ」
「さ、さようなら、楓先輩」
再び僕は、部室の外に追い出された。いったい、いつになったら飽きてくれるのだろう。僕は戦々恐々としながら、部室の窓を覗いた。
先輩は、窓際の自分の席に戻って、本を読み始めている。よし、今なら入れる。僕は、音を立てないように扉を開けて、ほふく前進で部室に潜り込んだ。ふう。何でこんなことになっているんだ。僕は、そのままオオサンショウウオのように、ぬめぬめと床を這い、自分の席の下まで移動した。
椅子の脇に来た僕は、じわりじわりと体を動かしながら、椅子によじ登る。けっこう体力を使う。僕のバランス感覚も、なかなかのものだ。シルク・ドゥ・ソレイユに入れそうだなと思いながら、僕は気配を殺して、パソコンの前に座った。
「サカキく~ん」
「ふんぎゃ~~!!!」
楓先輩が、僕の横に立っていた。
「ノシの練習をしたいの!」
「は、はあ……」
それから三日ほど、楓先輩のノシの練習は続いた。先輩は、無邪気に僕を、送り出し続けた。僕はへとへとになりながら、部室と廊下の往復を繰り返した。