雲居 残月 の 小説道場

主に「小説家になろう」で書いた話を中心に、小説投稿をおこなっていきます。

第134話 挿話32「文化祭と雪村楓先輩」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』

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 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、お気楽極楽な者たちが集まっている。そして日々、無計画な遊興に時間を費やしている。
 かくいう僕も、そういった欲望のおもむくままに生きる人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。

 そんな、遊び人ばかりの文芸部にも、真面目一徹の人が一人だけいます。道化師の群れに紛れ込んだ、司教様。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。

 楓先輩と僕の部活は、今は文化祭準備の真っただ中。満子部長が言い出した、猫耳メイド喫茶の目途も付き、急ピッチで準備中。店舗の内装を作ったり、コーヒーとともに出す掌編小説を書いたりしているのです。

 そういった慌ただしい日々を過ごしながら、僕には、実はもう一つの懸案があるのだ。僕は、文芸部の部室に貼られた、満子部長が作った二枚のポスターを見る。一つは猫耳メイドが描かれたもの。もう一つは、演劇部の部長で生徒会長の花見沢桜子さんが、炎をバックに立っているものだ。

 ――演劇部V.S.文芸部 因縁の対決 朗読V.S.批評の宴

 体育館でおこなう舞台イベント。文芸部が選んだ短編小説を、演劇部が朗読する。そのあと僕が、作品の批評をおこなう。ルールはいたって簡単。観客に投票してもらい、どちらが勝つか、雌雄を決するというものだ。
 その短編小説を選ぶ期限が迫っていた。文化祭開催の一週間前までに決定して、演劇部に届ける約束になっている。選ぶのは僕。今は十日前。あと三日しか猶予はない。

 どうするか。僕は、何を選べばよいか決めかねていた。イベントは、先生も見学して投票する。だから、いつも読んでいるような、萌え要素満載の本を使うことはできない。

「おーい、サカキ。短編小説を決めたか?」
「すみません。まだです」

 やって来た満子部長に、僕は頭を下げながら答える。

「もう期間はないぞ。不戦敗だけは許さんからな」
「ええ、それはもう」
「もし、そんな羽目になったら……」
「そんな羽目になったら?」
「パイルドライバーだな!」
「げっ、死にますよ!!」

 僕は思わず声を上げる。脳天杭打ちと呼ばれるパイルドライバーは、プロレスラーがかけても事故の多い、危険度マックスな技だ。

「つまり、死ぬ気で考えろということだ」
「は、はい。そうします」

 僕は、どうしてこうなったと思いながら、がっくりと肩を下ろす。そして、どうするべきか悩みながら、部室を喫茶店に改造する作業を続けた。

 けっきょく、その日の作業中も、何を選ぶか決められなかった。
 予定の作業が終わったあと、部室の端にある水道とカセットコンロでお湯を沸かして、お茶を入れる。普段の机や椅子は、隅に押しやっている。そして部屋の半分ほどの位置に暗幕を渡し、控え室にしている。残りの入り口側が喫茶店だ。そこに段ボールと模造紙で、お店の内装を作っている。文芸部のみんなは、その喫茶店の席に座り、くつろいでいた。

 控え室から出た僕は、楓先輩の姿を探す。端の方の席に座っている。そのテーブルに行き、先輩の斜め横に腰かける。湯呑みを両手で持ち、ぼんやりとしていた先輩が、僕に気付いて笑みを浮かべた。僕はお茶を一口すすり、同じように笑みを返す。

「どうしたの、サカキくん?」

 先輩は、少しだけお姉さんの口調で尋ねてくる。

「実は悩んでいるんです」
「そうなの?」
「ええ」
「相談に乗ってくれますか?」
「うん。どんな悩みなの?」

 先輩は、いつものように明るい声で言う。

「舞台イベントの短編小説です。何を選ぶか決まらなくて」

 楓先輩は、眼鏡の下の目を、ぱちくりさせる。そして、柔らかい表情をした。

「サカキくんが好きなものを選べばいいと思うよ」
「朗読向けのものが、なかなかなくて」

 僕は苦笑する。僕の持っている萌え小説に、適切なものがないから困っているのだ。小説の中には、お色気シーンやエッチなシーンもあったりする。だから、学校の舞台で読むのは、はばかられるのだ。
 先輩は、お茶を一口飲む。可愛らしい口元に、緑色の液体が吸い込まれて行くさまを、僕は眺める。どうするべきか。何を選ぶべきか。僕は、本当に当てがなく、途方に暮れる。

「そうだ、楓先輩」
「何?」
「先輩なら、何を選びます?」
「私の場合?」
「ええ」

 僕は、湯呑みを持っている先輩に視線を注ぐ。楓先輩は、湯呑みの中を見つめて考える。僕は、先輩の答えを待った。

「そうね、私なら……」
「私なら?」
「『山月記』かな」
中島敦の?」
「うん」

 僕は、その小説を知っている。どこで読んだのだろうと思い、部室で読んだことを思い出す。教科書だ。満子部長が買ってきた、小学校から高校までの国語の教科書。その高校二年生のものに掲載されていた。
 僕は席を立ち、暗幕の向こうの棚に行き、一冊を抜いて戻ってくる。目次をたどり、「山月記」の出だしを朗読する。

「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった」

 確か、ラジオでの朗読でも聞いたことがある。朗読の素材としても、よく利用されている作品だ。

「ねえ、サカキくん。どんな話か知っている?」

 楓先輩は、僕を試すようにして聞いてくる。

「ええ。中国の古典の『人虎伝』を素材にした内容ですよね。人が虎になるという」

 僕は、教科書の文字を目で追い、記憶を蘇らせながら、あらすじを述べる。

「李徴という秀才が、官を辞し、詩家として名を成そうとする。しかし、その願い叶わず、ついに狂い、虎になり、山に姿を消した。ある日、かつての友であり同僚であった、袁という男が山を通る。李徴はその友人に、身の上を語る。
 体は虎に成り果て、心は虎と人の間を行き来している。その、人の時間も徐々に短くなっている。李徴は袁に、自らの旧詩を託す。そののち、自らの境遇を漢詩にして朗詠する。そして、自らの心境を告白する。
 自分が虎になったのは、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を御せなかったからだ。人は誰でも猛獣使いであり、獣とは己の性情であると。李徴は日々過去を悔い、己の境遇を嘆き、山の頂の岩に立ち、月に向かって吼えるという。
 詩を託し、己について語った李徴は、妻子についての計らいを友に頼む。詩が先であり、己が次であり、妻子は最後であった。自分の関心の順番に、李徴は自嘲する。袁は立ち去り、丘の上で振り返り、友の姿を眺める。そこには、朝日に消えゆく月を仰ぐ、一匹の虎がいた。そののち袁は、二度と虎の姿を見ることはなかった。
 そういった話だったと思います」

 僕のあらすじを聞き、楓先輩は静かに頷く。そして、僕に優しげな眼を向けた。

「サカキくんのことだから、私がこの小説を選んだのは、朗読用に適しているからだと思っているでしょう」
「違うのですか?」

 楓先輩が言った通りの理由を、僕は想像していた。先輩は微笑み、お茶を口に運び、喉をこくりと動かした。

「たまたま狂疾によって、獣の身となる。災患わが身に重なり、逃げることあたわず。
今やわが爪牙に、誰があえて敵となろうか。当時は二人ともに、名実の誉れ高かった。
しかし、われは獣の身となり草の下に伏し、きみは車に乗る高官となり、意気盛んだ。
今宵、渓や山を照らす明月を前に、われは詩を吟じることなく、ただ咆哮をなすのみ」

 楓先輩の声が、部室に広がる。作中の七言律詩だ。その詩を、漢文の読みを残しつつ訳したものだ。詩自体は「人虎伝」による。中島敦はこの詩を基に、小説の後半を膨らませた。そして、人が虎になる怪奇譚を、人間の慟哭を描く、現代小説に再構築した。

「私はね。虎なの」

 楓先輩が、ぽつりと言った。どういうことだろうと思い、先輩の顔をじっと見る。先輩は、しばらく沈黙したあと、「がおーっ」っと言って、虎の真似をして、僕を笑わせた。
 僕と楓先輩は、くすくすと笑う。その声が引き潮のように去ったあと、先輩はゆっくりと口を開いた。

「この小説を読んだ時にね。私も李徴だなと思ったの」
「先輩がですか?」

 僕は、疑問に思って尋ねる。性、狷介と称され、のちに虎となる李徴。その人物と、おだやかで人当たりのよい楓先輩が同じだとは、にわかには思えなかった。

「ねえ、サカキくん。虎になった李徴は、人であった時にこうすればよかったと語るでしょう。師に就き、詩友と交って切磋琢磨すればよかったと。彼がもし過去に戻り、そうした場合、彼が望むように、詩家としての名を、死後百年に遺すことができたと思う?」

 僕は、無言で考える。死後百年も名を残すような詩家は、例外中の例外だ。たとえ李徴が過去に戻り、人生をやり直したとしても、望みを果たすことは難しいだろう。それはある意味、残酷な事実である。人の多くは、望む名声を手に入れられない。それは、秀才であっても同じだ。僕はその答えを、楓先輩に告げる。

「李徴はね、どんな人生を選んでも、必ず虎になると思うの。彼が詩を選び、夢を追った時点で、それは約束された道だと私には思えるの。何かの道を目指すということは、そういった虎になることだから。私は、そういった考えを持っている」

 楓先輩は、僕を見て、恥ずかしそうに微笑む。そして、照れ隠しなのか、湯呑みで口元を隠して、言葉を続けた。

「私も李徴と同じ。百年後に名を残すつもりはないけど、書かずにはいられない人間なの。
 私は、両親にわがままを言って、ノートパソコンを買ってもらった。頼んで、すねて、泣いてみせたの。そして、家族団欒の時間を削って、自分の部屋で、文章や詩を書いている。それは、貧窮に陥るまで妻子を顧みなった、李徴と変わらない。そしておそらく、死ぬまでそういった活動を続けると思う。
 だから、私は虎なの。私が歩む道は、そこに続いているから」

 先輩は、いつもと同じように座っている。僕はその先輩を、今一度見つめ直した。
 楓先輩は、大人びて見えた。そこにいるのは、毎日眺めている、小動物のような愛らしい少女ではなかった。僕よりも一つ歳上の、お姉さんだった。

「先輩は、なぜ文芸部に入ったのですか?」

 聞かずとも答えは分かっている。しかし、あえて僕は尋ねた。

「李徴とは違い、切磋琢磨できればなと思い、文芸部の門を叩いたの」

 先輩は、恥ずかしそうに、湯呑みの陰に隠れようとする。詩友を求めた先輩は知っている。そうしたからといって、大成するとは限らないことを。

 僕は、先輩の姿を眺めたあと、手元で開いている教科書に目を落とした。中島敦山月記」。その小説は、僕にとって特別な意味を持つものに変わっていた。僕はこの小説に、先輩の影を見るようになっていた。山の頂に立ち、月を見上げる虎は、楓先輩の姿をしていた。

「決めました」
「何を?」
「舞台イベントの短編小説です。この一篇にします」
「でもそれは、私が選んだ作品だよ」

 先輩は、戸惑いを交えながら声を漏らす。

「ええ、分かっています。僕がこの作品を取り上げたいのです」

 先輩は、少し困ったような顔をしたあと、ゆっくりと微笑んだ。

「サカキくんが決めたのなら、それでいいよ」

 僕は静かに頷く。
 僕は立ち上がり、控え室から自分のノートパソコンを取ってくる。文字を打ち込み、検索する。青空文庫に「山月記」はあった。

「印刷して、演劇部に渡します」

 僕は、部室のプリンターにデータを送る。
 楓先輩は、僕の声に頷いた。そして、見守るような温かい目で、僕のことを見つめてくれた。