雲居 残月 の 小説道場

主に「小説家になろう」で書いた話を中心に、小説投稿をおこなっていきます。

第122話「TS物」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』

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 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、淫靡な雰囲気の者たちが集まっている。そして日々、猥褻な情報に身を委ねている。
 かくいう僕も、そういった性的な情報に興味津々な人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。

 そんな、R指定な面々の文芸部にも、清らかな人が一人だけいます。ザッヘル=マゾッホの大軍に遭遇した、敬虔な修道女。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。

「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」

 間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を上げた。楓先輩は、ととととと、と駆けてきて、僕の右隣にちょこんと座る。ああ、先輩は可愛らしい。まるで、リスやハムスターといった小動物のようだ。僕は先輩の姿を眺めながら、笑顔で声を返した。

「どうしたのですか、先輩。ネットで、初見の単語がありましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの熟練者よね?」
「ええ。美輪明宏が人生に精通しているように、ネットの裏表に精通しています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」

 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、部室以外でも書き進めるためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、禁断の知識にアクセスした。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。

「TS物って何?」

 ごくりっ。
 そ、その言葉を、どこで目撃したのでしょうか? エロ界隈をさまよっていなければ、遭遇しない言葉だと思います。

 いや、先輩と同じように、疑問に思った人の質問を、ネットで見たのかもしれない。楓先輩が、自分でそういった情報にアクセスしているとは限らない。
 それにTSは、エロ関係では、破滅的に危険な言葉ではない。上には上がある。リョナとかは、本気でやばい。TS物ならば、まだ説明可能な範疇だ。それに、用語だけなら、エロ抜きでも問題ない。

 いける! エッチなサカキくんという評価を避けながら、TS物について語ることはできる。僕は果敢に、危ない用語への解説に挑もうとする。

「ほうっ。面白い話をしているな!」

 楓先輩の反対側、僕の背後から声が聞こえた。その声に、僕は全身を緊張させる。やばい人に、今の話を聞かれた。TS物など、この人にとっては、美味しいデザートにしかすぎない。僕は、声の主を確かめるために背後を向いた。
 そこには、この文芸部のご主人様、僕の天敵、三年生で部長の、城ヶ崎満子さんが、高笑いをしながら立っていた。

 満子部長は、古い少女マンガに出てきそうな、お嬢様風のゴージャスな容姿をした人だ。しかし、この姿に騙されてはいけない。その中身は、気高くも真面目でもなく、エロに染まった品性下劣なものだからだ。
 満子部長が、そういった困った性格をしているのは、その出自のせいだ。満子部長は、父親がエロマンガ家で、母親がレディースコミック作家という、サラブレッドな家に生まれた。そういった家庭環境であるために、両親から受け継いだ、深遠にして膨大なるエロ知識を保有している。そして性格はSであり、僕をこの部室で、ちくちくといたぶるのを趣味としているのだ。

「TS物か。あれはよいものだ」
「ちょっと、話に割り込まないでくださいよ!」
「サカキは、少しマゾなところがあるからな。TSFは大好物だろう」
「いや、確かに好きなジャンルですけど、少し黙っていてください!」

 満子部長は、肩をすくめたあと、僕に背中を見せる。ほっ、立ち去ってくれるのか。しかし、満子部長は、そのまま僕の左隣に座った。そして、肩越しににんまりと笑顔を見せたあと、僕の首に腕を巻きつけ、しだれかかってきた。

 ああ、何ということだろう。ただでさえ、難易度が高い言葉なのに、さらに説明が難しくなった。僕の人生は呪われているのか。僕は、絶望の淵に追いやられる。
 人生とは悲劇なのかもしれない。そんなことを考えながら、僕は楓先輩に顔を向ける。楓先輩の目は、僕への期待できらきらと輝いている。そこに光がある限り、僕は希望を忘れません。僕は、先輩の瞳に勇気をもらい、果敢に説明を開始した。

「TSというのは、トランスセクシャルの略です。直訳すると、性別の転換になります。創作の世界では、この性別の転換を扱ったジャンルがあるのです。それは、トランスセクシャルフィクション、あるいは、トランスジェンダーフィクションと呼ばれます。日本語では、TSF、TS物、TS、性転換物などと言われます」

 楓先輩は、僕の言葉を聞いて、斜め上を見上げる。どういったものなのか、考えているのだろう。

「性別が変わるということは、男性が女性になったりするの?」
「そうです」
美輪明宏さんみたいに?」
「あの人は、女性の格好をしているだけで、女性になっているわけではありません。芸能人で言えば、カルーセル麻紀や、はるな愛などが該当するでしょう。
 しかし、TS物と呼ばれる作品は、そういった手術によって性別が変わるものは、数が少ないです。何かの事件や事故を切っ掛けに、突然性別が変わるといったものが、多数を占めています」
「どういうことなの?」

 楓先輩は、上手く飲み込めないといった顔をする。僕は、十八禁ではないTS物を、頭の中で検索して、説明を試みる。

大林宣彦という映画監督の代表作の一つに、『転校生』という作品があります。この映画では、石段から落ちた男の子と女の子の心が、入れ替わります。つまり、一瞬のうちに、自分の心の性別と、体の性別が、食い違う状態になってしまうのです。

 TS物では、こういったように、肉体が突然変化する話が多いです。事故で性別が変わってしまう。朝起きたら、なぜか女の子になっている。そういった感じですね。
 多くのTS物では、自分の意志とは関係なく、性別が変わってしまうのです。そこが、現実世界の性転換者とは、大きな違いとなっています。

 こういった変化は、創作において、どういった効果をもたらすのでしょうか。TSによる視点の変化は、ある気付きを、鑑賞者や読者に与えます。それは、これまでとは違う視点で、社会を見るというものです。
 男性の視点で見ていた世界と、女性の視点で見る世界。それは同じ世界でありながら、まるで違う。TS物は、そういった新鮮な驚きを与えてくれます。そして、笑いや問題意識を提供してくれるのです。

 そういった意味では、昔話や映画などで繰り返し題材にされる、王子と乞食タイプの物語も、こういった効果を狙ったものだと言えるでしょう。そのため、性別が変わるといった話は、現代だけではなく昔にも存在します。

 平安時代後期に成立した、作者不詳の『とりかへばや物語』は、その一例でしょう。この物語では、肉体は変わらないものの、男女の主人公の社会的立場が交換されます。
 内気で女性的な性格の男児が姫君として育てられ、快活で男性的な性格の女児が若君として育てられ生活していきます。

 この話は、男女の立場が突然変わるものではありません。しかし、歴史的に見られる、TS物の萌芽として注目してよいと思います。ちなみに、この物語には、現代風にアレンジされた作品が、いくつか存在します。その中でも、氷室冴子の『ざ・ちぇんじ!』は、少女小説として手軽に読めるのでおすすめです。
 こういった作品は、性転換物というよりは、異性変身譚と呼んだ方が相応しいでしょう。このようなTS物は、僕たちの社会に、新しい視点を提供してくれる、貴重な存在なのです」

 僕は、エロ方面には一切触れず、TS物の解説をおこなった。完璧だ。これで楓先輩も満足してくれるだろう。僕は先輩の顔を見る。尊敬の眼差しで僕を見ている。よし。計画通りだ。僕の話術は、先輩の心を虜にしている。
 僕は、心の中でほくそ笑む。そして、意気揚々と話を切り上げようとする。

「なあ、サカキ。あっち方面もきちんと説明しろよ」

 背後の満子部長が、不満げに告げる。
 な、な、何を言っているのですか部長! TS物のエロ方面なんて。そんなダークサイドの話を、なぜしないといけないのですか?
 僕は、表情を険しくして、満子部長をにらむ。満子部長は、にんまりとして、僕の耳にささやいてきた。

「楓が、きょとんとしているぞ。このままでは、説明を中途半端にしか、してくれなかったと、思われるんじゃないのか? それとも、私が話をしてやろうか」
「黙っていてください。楓先輩は、満子部長みたいな汚れ役ではなく、清純派なのですから。そういった話に、巻き込まないでください」
「そうか分かった。仕方がない。……なあ、楓! TS物は、ある方面では、一大ジャンルなんだぞ!」
「ぶふっ!!!!」

 満子部長の突然の大声に、僕は驚きの声を漏らす。くっ、やはりこの人は天敵だ。僕は、おそるおそる楓先輩の表情を窺う。楓先輩は、どういうことなのだろうと、はてなを頭に飛ばしている。
 くっ、説明せざるをえないか。なるべくさらりと、当たり障りなく済ませたいところだ。僕は、額の汗を拭きながら口を開く。

「TS物は、ある特定の分野では、よく見られるジャンルなのです。そのため、普遍的に一定層の人気を獲得できる物語様式なのだと思います」

 僕の言葉は、無残なほどに歯切れが悪い。先輩は、不満げな表情をしている。ああ、駄目だったか。僕は絶望する。

「ねえ、サカキくん。ある特定の分野って何? 満子の話だと、サカキくんが好きなジャンルなのよね。だったら、詳しく話せるよね」

 楓先輩は、僕に顔を寄せて追及してくる。
 う、ううっ、駄目だ。詳しく語らなければらないのか。僕が、涙目で苦悩していると、首筋に、ふっと息が吹きかけられた。

「ふわぁおうっ!」

 僕は思わず、奇声を上げる。

「なあ、サカキ。代わりに答えてやろうか?」
「や、やめてください!」
「よし、じゃあ、説明してやろう!」
「うえっ?」

 なぜ、僕の懇願を無視して、あなたは説明を始めるのですか? あなたは生粋のサディストですか? 僕は、背中の満子部長に、非難の目を向ける。

「楓。TS物はな、エロマンガの世界では、確固たる地位を獲得したジャンルの一つなのだよ。男性主人公が、自分の意志とは無関係に、女性に変身させられる。そして、紆余曲折あって、女性としての行為におよぶ。
 最初は嫌がっていたのに、徐々に肉体の刺激によって快楽を感じ始める。そして、心までその興奮に身を委ねて、絶頂にいたる。それが、だいたい踏襲される物語の形式だ。

 なぜ、そういったストーリーが普遍的に人気があるのか。それは、男性読者が、エロを受容する時の、妄想の仕方に起因している。
 少なくない男性は、エロマンガを読んでいる際に、男性だけでなく、女性にも感情移入しながら興奮を覚える。男性として女性と交わりながら、女性としても感じる様を想像するのだ。

 またTS物は、読者のマゾヒズム的な、被虐性の快楽も満たしてくれる。そういった、脳内の複数レイヤーを刺激する快楽を、TS物は与えてくれるのだ。そして、オーケストラのような、重層的な充足感をもたらしてくれる。つまり、とてもエッチなわけだな。
 そのため、TS物という、倒錯的で刺激的なジャンルは、エロマンガだけでなく、エロイラスト、十八禁ゲームなど様々なジャンルで、一定の人気があるのだよ」

 ああ……。僕は絶望する。

 満子部長は、怒涛の勢いで、エロマンガにおけるTS物の説明をおこなった。
 そして、僕がTS物のエロマンガを、満更でもなく思っていることは、楓先輩にばれている。つまり僕が、倒錯的な性的刺激を好むということが、楓先輩に知られてしまったわけだ。

 いや、まだ一縷の望みはある。この一連の話を、楓先輩がどう思うかだ。心優しい先輩は、僕のような変態でも受け入れてくれるかもしれない。
 僕は、楓先輩の表情をじっと窺う。楓先輩は、顔を真っ赤にして、ぷるぷるとさせている。先輩は僕のことをどう感じているのだろうか? 息を殺して待っていると、楓先輩はゆっくりと口を開いた。

「サカキくんのエッチ……」

 ぐわ~~~~~っ、駄目だった! やはりエッチ認定されてしまった。
 満子部長は、楽しそうに席を離れていく。僕は、絶望に打ちひしがれる。僕のエロマンガの趣味の一角が、楓先輩にばれてしまった。僕は、そのことを嘆き悲しんだ。

 翌日のことである。楓先輩は、おそるおそるといった感じで、僕のところに近寄ってきて声をかけた。

「もしかしてサカキくんは、女の子になりたいの?」
「うえっ! どうして、そうなるんですか?」
「だって、TS物が好きだと言っていたから」

 楓先輩は、上目づかいで、僕を見ながら言う。僕は、姿勢を正して反論する。

「違います。女の子になりたいわけではありません。男性の快楽と、女性の快楽を、同時に味わいたいだけです。僕は、女の子として生活したいわけではありません。僕は、性的快楽の求道者なだけです」

 僕は、胸を張って主張した。先輩は「そ、そうなの……」と言って、離れていった。

 しまった。やってしまった。僕は、机に肘を突き、頭を抱えて、絶望する。そんな僕の肩に、満子部長が手を置いた。

「変態の主張。素晴らしかったぞ」
「満子部長のせいですよ~~~~!」

 僕は、話がこじれたのは満子部長のせいだと、猛然と抗議した。
 それから三日ほど、楓先輩は、僕を避け続けた。仕方がないので、その三日間、僕はTS物のマンガを読んで、心を慰めた。