第84話「壁ドン」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、人生に恨み節な人間が集まっている。そして日々、悶々とした生活を送っている。
かくいう僕も、そういったやさぐれた人間の一人だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、迷える子羊な面々ばかりの文芸部にも、王道を歩んでいる人が一人だけいます。曲がりくねった迷路の中に引かれた、どこまでも続きそうな真っ直ぐな直線。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向けた。楓先輩が、ととととと、と歩いてきて僕の右横に座る。そこは楓先輩の指定席。三つ編み眼鏡の愛らしい先輩が、いつも座る特等席なのです。
「どうしたのですか、先輩。ネットで、知らない言葉を見つけたのですか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットに精通しているわよね?」
「ええ。孫子が兵法を著すぐらいに精通しています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、家でもどんどん書き進めるためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで無数の文字情報に出会った。そのせいでネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。
「壁ドンって何?」
簡単なようで、実は難しい言葉を楓先輩は尋ねてきた。ネットで使われている壁ドンには、二つの系統がある。一つは主に男性が使うもので、もう一つは主に女性が使うものだ。そしてその意味は、百八十度とは言わないまでも、大きく違うのだ。
「えー、どっちの壁ドンですか?」
僕の質問に、楓先輩はきょとんとする。
「どっちって、二種類あるの?」
「ええ。恋愛に、背を向けているというか、見放されているような男子が使う壁ドンと、恋愛に、うふふとなるのが大好きな女子が使う壁ドンの、二種類がネットでは並立しています」
僕の答えに楓先輩は、悩ましそうな顔をする。おそらく楓先輩自身もよく分かっていないのだろう。これは、二つとも教えた方がよさそうだなと思った。
「まずは、男性側の用法から説明します。こちらの方が、古くて正統的だと思いますので」
「分かったわ」
楓先輩の返事を受けて、僕は語り始める。
「壁ドンは、そもそも壁をドンッと叩くことから来ています。たとえばアパートなどの集合住宅で、隣がうるさい時に壁をドンッと叩いて、うるさいことを知らせる。そういった状態が、そもそもの壁ドンの起源になります。
そのことから派生して、隣の部屋でいちゃついているカップルにイラっと来て、壁をドンッと叩いて、その行為をやめさせたり、抗議の意思を示したりするような行為を、特に強く指します。また、むかつくようなことがあった際に、その怒りを壁にぶつけて、怒りを解消するような行為も、壁ドンと呼ばれます。
こういった壁を殴ることは、それなりの痛みを伴います。そのため、壁殴り代行という、謎の代行業も、ネットではネタとして存在しています」
「それが男性側の壁ドンなの?」
「そうです」
「何だか殺伐としているわね」
「そうですね。ルサンチマンの塊です」
僕は、ため息交じりに答える。
「それで女性の方はどうなの?」
「男性側は、恋愛と無縁な人たちが使いそうな雰囲気でしたが、女性側は、恋愛にどっぷりとつかった人が用いそうなイメージになります。
こちらは、少女マンガや乙女ゲーなどで、俺様系のイケメンキャラが、ヒロインの女の子を壁際に追い詰めて、壁にドンッと手を突いて逃げ道を塞ぎ、『それで、俺と付き合うわけ?』などのように、押し迫る行為を指します。
女性の憧れの一つには、このようにイケメンに強引に迫られるという状況もあるようです。こういった強引な行為に、乙女はきゅんきゅんして、押し切られて付き合ったりするわけです。
こちらのシチュエーションに、壁ドンという言葉が当てられたのは、比較的新しくなります。そしてなぜか、迫る方と迫られる方が男性同士だったり、女性同士だったりするケースもよく見られます。その件については、僕は多くを語りません。
このように、男子側の想像する壁ドンと、女子側の想像する壁ドンの間には、大きな開きがあります。そのためにネットでは、『何だあれは?』的な不満が吐露されることもあります。
男子と女子の壁ドンは、違う文化圏のシチュエーションに、同じ言葉が割り当てられた珍しい例なのですね」
僕は楓先輩に、文化的背景を含めた壁ドンの意味を解説する。楓先輩は、なるほどといった顔をする。その時である。入り口近くの席から、声が聞こえてきた。
「一昨日、ユウスケが、壁ドンをしていた」
えっ? 僕は、その声の主に顔を向ける。僕の正面の席に当たるその場所には、同学年で幼馴染みの、保科睦月がいた。
睦月は、子供の頃から、野山で一緒に遊んだ友人だ。しかし、中学生になった頃を境に、僕との会話がほとんどなくなってしまった。その代わりに、部室で競泳水着やスクール水着姿で過ごし始めたのだ。睦月は、僕の真正面の席に座って、じっと僕を見ている。僕は、どうすればよいのか分からず、途方にくれている。まあ、水着姿の美少女を毎日拝めるのは、素直に嬉しいんだけどね。
その睦月が、僕に視線を向けたあと、楓先輩の顔を見た。
「ねえ、睦月ちゃん。サカキくんが壁ドンをしていたの?」
「はい」
「それは男性的視点の壁ドンなの? それとも女性的視点の壁ドンなの?」
「それは、ユウスケに直接聞いた方がよいと思います」
睦月は僕に話を振る。えっ、なぜですか? 僕は、その理由を探ろうとして記憶をさかのぼる。
二日前のことである。僕は自宅の部屋で、いつものようにネットを巡回していた。隣には、なぜかいつもの睦月がいて、水着姿でマンガを読んでいた。ジェントルマンな僕は、隣に水着の美少女がいるというのに、まるでそこに空気しかないかのように、アニメの感想サイトを読んでいたのである。
そのサイトは、四十代後半の生粋のオタク男性が運営していた。その運営者は、深遠な解説と洞察で、ネットの一部で有名だった。そして引き出しの多さは、そのサイト運営者が、人生の多くの可能性を切り捨てて、オタク道に邁進してきたことを教えてくれるものだった。
僕はそのサイトの管理人を密かに尊敬していた。もし仮に、そんなことにはないだろうけど、僕が大人になってリア充になれなかった場合は、彼のような人生を歩むのだろうと考えていた。つまり彼は、僕の人生のロールモデル的な存在だったのである。
その彼が、サイトの更新を一週間休んでいた。ネットの一部では、いったい何が彼の身に起きたのだろうかと、様々な憶測が飛び交った。その彼が、久しぶりに長文の更新をしたのである。僕は、その内容を確かるために、モニターの前に座っていた。
「どうしたのユウスケ、真剣な顔をして?」
睦月の問いに、僕は顔を向けずに答える。
「うん。ネットのアニメ評論界で有名な、童顔誓願さんが久しぶりの更新をしたんだ」
彼のことは何度か睦月に話している。童顔の女の子が欲しいと、神仏に誓いを立てて願うほどの、生粋のロリコン、アニオタさんだ。睦月は興味を引かれたのか、マンガを閉じて僕と並んで、モニターに顔を近付けた。
――恥の多い生涯を送って来ました。
出だしは手記のようにして始まった。何だか太宰治っぽいなと感じ、大丈夫かなと僕は思う。太宰治と言えば、自殺未遂に失敗して死んだ人だ。童顔誓願さんが、その文章を真似るということは、自分と太宰を重ね合わせているのかもしれない。それならば、その先に死を見ている可能性がある。僕は緊張しながら、先を読み進めた。
――自分には、リア充の生活というものが、見当つかないのです。自分はアニオタとして生まれました。そのため、齢一週間にしてアニメを見始めました。自分はそれが虚構の世界の話だとは思わず、テレビの枠の中の世界こそが現実で、フレームのこちら側の世界こそが虚構であると思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。画面を覗き込むことは、自分には当たり前の行為で、それこそが世界を覗き見る唯一の手段だと信じていたのです。のちにそれは、ただ誰かが作った非現実の世界に過ぎないことを発見して、大いに絶望しました。
その自分が、なぜこの年齢までアニメを見続けてきたのでしょうか。それは逃避だったのです。画面のこちら側に現実感を持てない自分には、アニメを見てそれを批評して、画面の中の世界を補強して、確かなものにすることが、唯一現実感を得られる営みだったのです。
正直に申しましょう。自分には分からないのです。この世界の生き方というものが。他人はなぜ、恋に落ち、友情を語り、未来を望み、生きたいと望むのか。自分を偽って、人間の振りをして、しかもその姿を当然のものと信じ込み、暮らしていく方がよいんじゃないか? そうすることができるのならば、どれだけ楽なのだろうかと考えていました。
そういった恥の多い人生を送ってきた自分が、今度結婚することになりました。えー、ぶっちゃけた話をします。お相手は童顔の可愛らしい女性です。声は、某有名声優に似ています。年は二十ほど離れています。正直なところ、結婚準備に忙しくて、サイトの更新が止まっていたのです。
あー、白状してしまった……。
追記。童顔誓願の妻です。童顔誓願は、ネットでは顔出ししていませんが、長身でイケメンです。声は低くて渋いです。籍は三日前に入れました。オホホホ。
僕は動きを止めた。そしておもむろに立ち上がり、壁に向かって勢いよく拳を叩き付けた。
ドンッ!
「ふっ、ふざけんな!!!! 俺の純情な尊敬の心を返せ~~~~!!!!」
僕は、血涙を流さんばかりに絶叫した。僕の心は、ハートブレイクで粉々で、粉砕骨折してしまった。僕は、壁にもたれかかって、大きくため息を吐いた。ああ、本当に何というか、僕はもう、絶体絶命的に意気消沈していますよ。はああ~~~。
「ねえ、ユウスケは、童顔誓願さんが結婚するのが嫌なの?」
傷心の僕に声がかけられた。睦月は、水着姿で体育座りの姿勢で、上目づかいに僕のことを見上げていた。
「ごめん、睦月。取り乱してしまって。童顔誓願さんが結婚するのが、嫌なわけではないんだ。本当は、心から祝福しないといけない。そのことは分かっているんだ。
でも、絶対リア充にはならないと思っていた人が、いきなりリア充になったから、ちょっとだけ我を忘れてしまったんだ。僕は少しだけ、裏切られたような気分になったんだよ。まあ、置いてけぼりにされたような感じと言えばよいのかな」
僕は、自嘲気味な笑みを浮かべて答えた。
そんな僕の姿を見ていた睦月が、いきなり立ち上がった。そして、真面目な顔をして僕に歩み寄ってきた。えっ? 何ですか? 僕は意味が分からないまま、水着の睦月に、壁に追い詰められた。
ドンッ。
睦月は壁に両手を突き、僕が逃げられないようにする。こ、これは、もう一つの壁ドンのシチュエーション! 男女逆だけど、僕は睦月に決断を迫られる、気弱なサカキくんになっている!
そんなおびえる僕に、睦月は顔を近付けて、声をかけた。
「ユウスケも、リア充になる?」
えっ? その意味が分からず、僕は睦月の表情を観察する。睦月は、滅茶苦茶赤面している。今にも顔から、火が噴き出しそうだ。
大丈夫だろうか。熱でもあるのではないかと僕は思った。僕は手を伸ばして、睦月の額に手の平を当てる。睦月は恥ずかしそうに手を下ろして、すねたような顔で僕を見上げてきた。
その時である。部屋の扉がいきなり開いた。その勢いは凄まじく、家が壊れんばかりであった。
「祐介、あんた何やっているの!」
「げげっ!」
母親が部屋に怒鳴り込んできた。母親は、部屋の壁を見る。そこには、うっすらと僕の拳の跡が付いている。母親は、顔を憤怒の形相に変えて、僕の頭に拳骨を叩き込んできた。
「家の壁を殴るんじゃないよ!」
ええ~~~~! 壁は駄目でも、僕の頭は殴ってもよいのですか? 僕は突っ込みをいれたくて仕方がなかったのだけど、再び殴られそうなのでやめた。
そういったことが、二日前にあったのである。
「ねえ、サカキくん。それで、サカキくんがした壁ドンって、男性的視点の壁ドンなの? それとも女性的視点の壁ドンなの?」
楓先輩が、長い回想の旅に出ていた僕に尋ねてくる。
ええ……。どっちが正解なのかな? 男性的視点の壁ドンをしたら、女性的視点の壁ドンをされた僕が通りますよ。
うーん。この場合は、やはり男性的視点だと答えるべきだろう。しかし、それを答えると、僕がまるで、もてないことを悲観して壁を殴っている人のような印象を、楓先輩に与えてしまう。それは、今後の恋愛戦略上好ましくないのではないか。僕は、そういったことを考えて口を開いた。
「先輩。僕は、どちらの壁ドンもいける系の男子ですよ!」
楓先輩は、ふにゃっ? という感じで、首を傾ける。
「サカキくんは、誰か女性に壁ドンしたの?」
うん? あれ? しまった。僕はイケメンアピールをしようとして、どうやら面倒な事態を引き起こしてしまったようだ。
「いや、したというか、されたというか」
「された? 長身イケメン男子に、サカキくんが告白されたの?」
「うっ、いや……」
あれ、おかしいぞ? 話がどんどん、こじれていく。
「いえ、女の子に壁ドンされました」
僕が、弱々しい口調で言うと、部室の入り口の方で、睦月がしゅたっと手を挙げて、自分がしたというアピールをした。
ああああああ……! 三角関係的修羅場に、この部室はなるのか!! 僕は、血の雨を覚悟しながら、恐れおののいた。
「こんな感じ?」
ドンッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
楓先輩は立ち上がり、壁沿いに座っている僕に対して、壁ドンをしてきた。えええ~~~~~! 目が笑っていないんですけど~~~~~~~~! 楓先輩の、眼鏡の下の目は、恐ろしい光をたたえていた。
「え、ええと。もっと穏やか~な、感じだったかなあと思うのですが」
僕は、顔を引きつらせながら答える。ええと……、楓先輩は、僕に嫉妬してくれたのでしょうか? こ、怖くて聞けないのですが。
それから二日ほど、僕が部室から出てトイレに行くと、部屋の中で壁ドンの音が聞こえた。か、楓先輩でしょうか? 僕は恐ろしくて、そのことを尋ねることができなかった。