雲居 残月 の 小説道場

主に「小説家になろう」で書いた話を中心に、小説投稿をおこなっていきます。

第82話「働いたら負けかなと思ってる」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』

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 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、働く気のない人間が集まっている。そして日々、怠惰な休息に身を費やしている。
 かくいう僕も、そういったやる気のない人間の一人だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。

 そんな、現実逃避をしている面々ばかりの文芸部にも、真面目に人生を考えている人が一人だけいます。ニートの群れに紛れ込んだ、ボランティアのお姉さん。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。

「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」

 間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向けた。楓先輩が、ととととと、と歩いてきて、僕の横に軽やかに座る。スカートが楽しげに膨らみ、ぱすんと閉じる。その動きに合わせて三つ編みが揺れて、僕の心は浮き立った。楓先輩は、いつものように笑顔を浮かべる。僕は、めろめろになりながら声を返す。

「どうしたのですか、先輩。またネットで、知らない言葉を見かけたのですか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットをよく知っているわよね」
「ええ。そろそろイグノーベル賞を、受賞できそうなぐらいに研究しています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」

 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿に、家でも赤を入れるためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで先人たちの知恵の結晶に出会ってしまった。そのせいでネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。

働いたら負けかなと思ってる、って何?」

 ああ……。ニートの神様だ。
 僕は遠い目をして、その画像を思い浮かべる。通称ニート君。ハンドルネームD-chan氏。当時二十四歳だった彼は、二〇〇四年に「とくダネ!」という番組に、ニートの一人として登場した。その際に、「働いたら負けかなと思ってる」「今の自分は勝ってると思います」という名言を残した。その言葉を受け、ネットでは、「働いたら負けかなと思ってる」のアスキーアートが多数作られた。彼はニート代表として話題をさらった。そして、ある意味核心を突いているこの台詞は、ネットの定番フレーズになったのだ。

「サカキ先輩! 今もその考えは変わっていないのですか?」
「ふえっ?」

 僕は、素っ頓狂な声を上げながら、顔を向ける。そこには僕の苦手な相手、一年生の氷室瑠璃子ちゃんが座っていた。

 瑠璃子ちゃんは、その名の通り、僕に対して氷のように冷たい女の子だ。だが、瑠璃子ちゃんの特徴は、それだけではない。どう見ても、小学校低学年にしか見えない外見。そして人形のように整った顔。その姿と、目付きと、きつい性格のせいで、「幼女強い」という謎の陰口を叩かれている女の子だ。
 その瑠璃子ちゃんは、なぜか僕に厳しい。「なぜ、わざと失敗するのですか」とか、「きちんとできないのは、遺伝子レベルの欠陥ですか」とか、「どうすれば、だらしない格好で平気でいられるのですか」とか、世話焼き女房のように、いつも小言を言ってくる。僕のガラスのハートは、そのたびに粉々に砕けそうになる。瑠璃子ちゃんの言葉の暴力に、僕はいつも打ちのめされている。

 そういった感じで、僕にとって天敵である瑠璃子ちゃんが、「今もその考えは変わっていないのですか」と聞いてきたのだ。
 僕は瑠璃子ちゃんの顔を見る。瑠璃子ちゃんは、僕のことをにらんでいる。いったいなぜだろう。僕は記憶をたどる。そういえば、小学校時代に、そういったやり取りがあった。僕はそのことを思い出す。

 あれは小学五年生の時である。僕は上から二番目の学年という高みにのぼり、小学校という階級社会を睥睨していた。翌年には天下を取る。しかし、その権力は一年しか持たない。明智光秀の三日天下よりは長いが、一年でその玉座から失墜する。その翌年は中学一年生という最下層に、再び組み入れられる。
 人生は、どうしてかくも理不尽なのだろう。僕は自分の運命が、学校制度というシステムにもてあそばれる姿を想像して、はかない思いを抱いていた。

 その日、僕は体育館の倉庫に立っていた。そこには、バレーボールやバスケットボールがかごに入っており、マットや跳び箱が詰め込まれていた、それらはまるで、人の営みの戯画のように僕の目には映った。何の生産性もないボール遊びや、回転運動、跳躍運動。人は、それらに時間を費やしている。それは、人生が無為な作業の連続であることを、僕に教えてくれるようだった。

「さて、どうしよう」

 僕は途方にくれながら言葉を漏らす。僕は、学校制度というよく分からないシステムの中で、掃除当番という謎の役職に就いていた。
 僕は、なぜその仕事をしないといけないのだろう。この作業をすることで、僕に何の利益があるのだろう。分からなかった。僕の洞察力では、このシステムがなぜ作られて、日本中の子供たちが甘んじているのか、見抜くことができなかった。

「サカキ先輩。掃除は、まだ終わらないのですか?」

 気付くと、倉庫の入り口に、モップを持った瑠璃子ちゃんが立っていた。瑠璃子ちゃんは、なぜか体操服姿だった。おそらく、放課後の掃除時間の前が、体育の授業だったのだろう。そして、着替える時間を惜しんだ彼女は、そのまま掃除の仕事に従事した。その結果が、体操服姿という今の姿にいたっているのだろう。

「瑠璃子ちゃん。掃除が終わるとは、どういった状態を意味しているのかな?」
「えっ?」

 瑠璃子ちゃんは、怪訝な顔をする。

「僕は、思うんだ。掃除というものは、グラデーションのようなものではないかと」
「どういうことですか?」

 瑠璃子ちゃんは、倉庫に、ととととと、と入って来て、僕の横に立つ。僕は、瑠璃子ちゃんに説明をする。

「僕たちは、一定の作業をおこなうことで、掃除が完了したと見なす。たとえば、床面積のすべてを掃くことで、それが終わったと宣言する。
 しかし、掃除の目的は、ごみを取り除き、その場所をきれいにすることだ。それは、人間の目という、解像度の低い視覚によって、確かめられる状態でしかない。ごみは、完全には取り除かれてはいないだろう。解像度を上げていくと、その場所は、掃除前と変わらないぐらい汚れた状態を維持している。
 僕は、そのことに虚しさを感じるんだ。そして、学校というシステムが、なぜこのような不毛な作業に、僕たちを従事させるのか、大いなる疑問を抱かずにはいられないんだ」

 僕は、愁いをたたえた笑顔を瑠璃子ちゃんに見せる。瑠璃子ちゃんは、僕の顔を見たあと、呆れたような顔をした。

「そんなことはどうでもいいですけど。早く掃除を終えてしまった方がいいと思いますよ。私は、自分の当番の掃除を完了させましたよ」

 なるほど。僕は、瑠璃子ちゃんの行動の裏に潜んだ事情を把握する。瑠璃子ちゃんは、体育館の掃除当番だった。そして、それが終了した。だから、掃除道具を片づけるために、倉庫にやって来た。そこで、倉庫担当の僕と出会ったのだ。
 分かってみれば、何の不思議もないことだった。世の中の謎のほとんどは、こういったありふれた結末を迎えるのだろう。そのことを知った僕は、世の中に対する皮肉めいたものを感じた。その気持ちを抱えたまま、僕は瑠璃子ちゃんに顔を向けた。

「掃除をするべきか、しないべきかで悩んでいるんだ」
「随分長いこと考えているんですね。そろそろ掃除時間は終わりますよ」

 瑠璃子ちゃんは、僕の頭を心配するような口調で言う。そうか。瑠璃子ちゃんは、この世界のシステムに、何の疑いも持っていないのだろう。
 知るということは、かくも残酷なことなのか。学校制度の理不尽さに気付いた僕は、そのことについて悩み、行動を止めてしまっている。しかし、そのことに気付かない瑠璃子ちゃんは、作業を迅速にこなしている。
 そういった瑠璃子ちゃんのあり方は、この社会の中で高く評価されるだろう。考えることは、立ち止まることを意味する。それは時に、環境に対する緩慢な死を招くのだろう。

働いたら負けかなと思ってる

 僕は、ネットで見た、ニートの神様の台詞を口にしてみる。その言葉は、僕の置かれた状況に、非常に合致しているように思われた。そのフレーズは、すべてを洞察した上に訪れた、達観のように僕には感じられた。

「あの、サカキ先輩、大丈夫ですか?」
「うん。僕はいたって正常だよ。僕はいつだって、エネルギーレベルの低い状態で安定しているんだ。それが、僕の処世術だね。人間は様々な段階で、安定という名の幸福を得ることができるんだ」

 瑠璃子ちゃんは、大きくため息を吐いた。

「分かりました。今日のところは、先輩が呆けているのを見逃します。その掃除道具を渡してください。サカキ先輩の代わりに、私が掃除をしておきますから」

 僕は、瑠璃子ちゃんに掃除道具を与えた。瑠璃子ちゃんは、お掃除ロボットのように、ちょこまかと動いて床をきれいにした。そこには、何らかのアルゴリズムがあるように思えた。しかし僕には、その法則性が分からなかった。なぜ分からなかったのだろうか? それは、僕の心と社会の仕組みが乖離しているからだろう。
 そうやって僕は、ぼうっとしている間に、年下の女の子である瑠璃子ちゃんに、掃除をしてもらったのだった。

 僕は、意識を現在の部室に戻す。そういえば、「働いたら負けかなと思ってる」について、そういったやり取りがあったことを思い出す。
 ああ、小学校時代の僕は、ダメ人間の鑑のような存在だった。今のように成熟していなかった僕は、様々なことに心を悩ませて、不可解な行動を取ったものだ。振り返って考えると恥ずかしい。

「ねえ、サカキくん。働いたら負けかなと思ってる、って何?」

 長い回想にふけっていた僕に、楓先輩が尋ねる。

「その言葉はですね、テレビ局の人が、二十代のニートの人にインタビューをした時に、出てきた台詞です。
 働いたら負けかなと思ってる。その言葉は、日本のいびつな社会構造を看破した上で、あえて働かないという選択をしたように思える衝撃的な内容でした。その発言は、答えた人の特徴的な容姿との相乗効果で、ネットで伝説のフレーズとして定着したのです
 そして現在では、ニートや、働きたくない人が言う定番の台詞として、ネットに定着しているのです」
「へー、そういったことがあったのね」

 楓先輩は、感心したような顔で言った。

「それで、サカキくん。瑠璃子ちゃんが言った、今もその考えは変わっていないのか、とはどういうこと? サカキくんは、働いたら負けだと思っているの?」
「えっ、それは……」

 僕は、口ごもる。
 ここは、社会性があり、世間に求められるサカキくんとして、やる気満々なところをアピールするべきだ。
 働いてばんばん稼ぎますよ! だから、楓先輩は安心して僕を好きになってください! そういった、雄としての矜持を、僕は先輩に見せるべきだろう。

「サカキ先輩は、働いたら負けだと思っているそうです。そして、小学校時代、私に自分の担当場所の掃除をさせました」
「ふえええ?」

 僕は情けない言葉を吐く。それは、たった一回のことですよ! 瑠璃子ちゃん、ご無体な!
 僕は、あわあわとしながら、楓先輩の様子を窺う。ちょっと軽蔑したような目で、僕のことを見ている。真面目で純真な楓先輩は、僕が哲学的な命題にふけって、メランコリックに掃除を放棄してしまったことなど、想像できないようだ。

「る、瑠璃子ちゃん。それは、たった一回だけですよね?」

 僕は、おそるおそる瑠璃子ちゃんに尋ねる。
 瑠璃子ちゃんは、手を出し、指を折り始めた。え? ええ? そんなに瑠璃子ちゃんに掃除をしてもらっていたかな? 僕は、自身の不確かな記憶力に狼狽する。

「すみません。片手では、数えきれませんでした」

 あああああああああああああああああああああああああ!!!
 僕は、その場で、がっくりとうな垂れる。楓先輩は、そんな僕の肩に手を置いて、お姉さんの口調で話しかけてきた。

「サカキくん。掃除は、きちんとしないと駄目よ」
「は、はい。善処します」

 僕は、涙目で答えた。

 それから三日ほど、僕は部室の掃除担当にさせられた。なぜですか? どうやら、瑠璃子ちゃんの代わりに、掃除しないといけなくなったらしい。ああ、因果応報。小学校時代のつけが、よもや中学校の部活で来るとは。僕は、瑠璃子ちゃんに監督されながら、部室の隅から隅まで、ぴかぴかにさせられた。