第78話「おそロシア」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、豪傑たちが集まっている。そして日々、自らの技と力を磨いている。
かくいう僕も、そういった荒ぶる人間の一人だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな無頼漢たちの文芸部にも、清楚でおしとやかな人が一人だけいます。サーベルタイガーの群れに紛れ込んだハムスター。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を上げた。先輩は嬉しそうにやって来て、僕の右隣に座る。その動きとともに三つ編みが揺れて、眼鏡をかけた顔が僕に向けられる。そのお顔の可愛さを堪能して、僕は声を返した。
「どうしたのですか、先輩。ネットで、知らない言葉を見たのですか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットに詳しいわよね」
「ええ。『生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え』を検索せずとも知っているほど、ネットに精通しています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、家でも見直すためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで一生かけても読み切れない文字の渦に出会った。そのせいでネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。
「おそロシアって何?」
僕は、暗殺者を警戒して周囲を見渡す。大丈夫だ、問題ない。僕を監視する人間はいないようだ。僕は、そのことに安堵しながら口を開く。
「おそロシアは、恐ろしやとロシアをかけた言葉です。このフレーズは、『ろしや』と『ロシア』が被っている掛詞なわけですね。意味は、ロシア恐るべし、あるいは恐ろしいロシア、といった感じになります」
僕は、危険な目には遭わない安心感から、気軽に答える。楓先輩は、なるほどといった顔をしたあと、少し疑問の表情を浮かべた
「なぜ、ロシアが恐ろしいの?」
当然の疑問だろう。僕は、ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンの姿を思い浮かべながら答える。
「歴史的経緯や国民性的もありますけど、やはり一番の理由は、ネットで大人気のプーチンじゃないですかね。まあ、プーチンは、うちの文芸部の鷹子さんのような人ですね」
「はあ? 何だって!」
怒声を含んだ声が、部室に響いた。その声に、僕は全身を凍り付かせる。あれ、おかしいな。周囲を警戒して、危険がないことを確認してから話したはずなんだけど……。
僕は扉に顔を向ける。そこには、三年生でちょっと強面、女番長と評判の吉崎鷹子さんが立っていた。鷹子さんは、高圧的で、暴力的で、僕にアニメや、マンガや、ゲームをよく持ってこさせるモヒカン族だ。そして、僕を部室の真ん中に立たせて、それらの作品の批評や解説をさせる、恐ろしい人なのだ。
その鷹子さんは、拳を血で濡らし、頬に返り血を浴びている。ひいいぃぃぃぃ~~~~。どなたかを、ご粛清されたのですか? 鷹子さんは、プーチンもびっくりの鋭い視線で部室に入り、僕の席までやって来た。
「ああん、サカキ。何の話をしていたんだ?」
鷹子さんは机に手を突き、僕をにらむ。机は、鷹子さんの怒りを受けているせいか、大きく歪んで、きしみ音を立てる。
鷹子さんは、長身でスタイルがよく、モデルのような美人さんだ。その顔が、凍てつくシベリアの風のように冷気に満ちている。その目には、大粛清を起こしそうな殺気が満ちている。
「ええ、あの、ロシアの話をしておりまして」
「ねえ、鷹子。サカキくんが、ロシアがいかに恐ろしい国かを教えてくれているの。一緒に聞く?」
楓先輩が、言わなくてもいい台詞を言う。何で、そこで、鷹子さんを巻き込むんですか~~~!
鷹子さんは、僕の顔をねめつける。そして、目に妖しい光を浮かべた。
「そうか。ロシアの話と、私がどう関係あるのか、聞かせてもらおうか」
鷹子さんが、僕の左隣にドカリと座る。ひいいぃぃぃぃ~~~~。僕は、右手にハムスターのような楓先輩、左手にサーベルタイガーのような鷹子さんに挟まれる形になった。
「ねえ、サカキくん。それで、ロシアはどう『おそロシア』なの?」
先輩の顔は無邪気だ。僕の置かれた危機にまるで気付いていない。その反対側には、イワン雷帝のごとく君臨する暴力の権化、鷹子さんがいる。僕はロシア皇帝の前に引き出された、哀れな農奴のような気持ちになりながら語り出す。
「ロシアの恐ろしさについて語るには、ロシアの歴史から語るのが望ましいでしょう。ロシアは、一四八〇年に、キプチャクハン国の支配から抜け出して独自の道を歩み始めます。そして、一七二一年にロシア帝国が成立します。この帝国は一九一二年まで続きます。
このロシア帝国は、ヨーロッパ文化圏の国でしたが異質な地方でした。そのことがよく分かるのは、フランス革命が一七八九年に始まっていることです。
そういった近代への息吹がヨーロッパに広がっていく中、ロシアは皇帝を頂点とした強烈な専制国家として、北の地に存在し続けたのです。またその軍事力も強大で、ヨーロッパ最大の陸軍を持つ軍事大国でもありました。
この時点で相当おそロシアなのですが、そこから歴史はダイナミックに変転します。ソビエト社会主義共和国連邦の誕生です。ロシアは革命により、ソビエト連邦になります。
平等で公正な社会を目指すはずだった社会主義国家は、一党独裁の軍事国家への道を歩みます。支配者たちは、反対派を弾圧する粛清を繰り返し、第二次世界大戦後は、西側の自由主義国家と対立して冷戦構造を作りだします。
そのソ連が一九九一年に崩壊して、現在のロシア連邦が誕生しました。そのロシアの経済を躍進させ、強いロシアの再建を目指したのが、プーチンという強面の男なのです」
僕は楓先輩の姿を見る。歴史の話を楽しそうに聞いている。鷹子さんは、それがどう自分と関係があるんだよという目で僕をにらんでいる。僕は首をすくめながら、続きを語る。
「日本にとっても、ロシアは強面の相手です。明治維新後、日本が韓国に進出したのは、ロシアの脅威に必死になっていたから、という背景があります。
この狂奔は日露戦争でいったん終わりを迎えます。日本は、圧倒的な戦力不足の中、ロシアに辛うじて勝利を収めます。このように、ロシアは日本にとっても恐ろしい国なのです。
まあ、そういったことを抜きにしても、ロシア人のイメージと言えば、大柄でマッチョで、ウォッカで駆動している荒ぶる人たちというイメージがあります。繊細でひ弱な日本人には斜め上の行動が、ロシアでは民間人レベルでよくおこなわれています。
ネットでは、そういったエピソードが出てくるたびに、『さすがロシアだ恐ろしや』という文脈で『おそロシア』と呼ばれています。
そういった背景を踏まえた上で、いよいよ、ネットで注目されているプーチンの話に移りましょう」
楓先輩は熱心に聞いている。鷹子さんは、自分のように恐ろしい人だと言われたプーチンについて、興味津々のご様子だ。
ここで下手を踏むと、鷹子さんにパンチやキックといった暴力を受ける可能性がある。僕は細心の注意を払いながら話を展開していく。
「ウラジーミル・プーチンは、元KGBのスパイで、ロシア連邦の大統領です。強力な指導力と、攻撃的な性格で知られています。彼は柔道の有段者で、政治家とは思えないほどマッチョで肉体派なことで有名です。そして、その強烈なキャラクターで、ネット民に大人気です。
彼の発言では、一九九九年の、チェチェン武装勢力に対してのものが有名です。その台詞は『テロリストは便所に追い詰めて肥溜めにぶち込んでやる』というものでした。
プーチンは、反対派には容赦ないことで知られており、元KGBということもあり、気に入らない相手の暗殺の噂が絶えない人物でもあります」
僕がプーチンについて語ると、鷹子さんが表情を険しくした。
「そいつのどこが、私に似ているんだよ」
えー、マッチョ主義のところとか、そっくりではないですか。でも、そういったことは怖くて面と向かって言えず、僕は必死に台詞を考える。
「武道をたしなんでいるところですかね。プーチンさんは、十一歳の頃から柔道とサンボをしていて、大学時代には、サンボの全ロシア大学選手権に優勝、柔道については、レニングラード市大会で優勝した経験を持っています。
KGB出身ですから、戦闘技術にも長けています。そういったところが、鷹子さんにそっくりだと思うのですが、どうでしょうか?」
「つまり、私が暴力的だということか?」
「そ、そんなこと言っていませんよ」
力強く拳を握る鷹子さんを見て、僕は背筋を凍り付かせる。暴力的で、間違っていないじゃないですか~~~~!
「えー、そうですね。プーチンさんは、とっても頭がいい人ですよ。レニングラード大学の法学部を出て、KGBで活躍していましたから」
「それがどうした」
ええ~~っ!
どうやら、頭がいいかどうかは、鷹子さんの価値基準ではあまり重要ではないらしい。
僕は、必死にプーチンのいいところ探しをする。何で僕が、プーチンのいいところ探しをしないといけないんだよ。
女性で、実は可愛いものが大好きな鷹子さんは、武闘派だと言われることが嫌いみたいだ。でも、プーチンをどう輪切りにしても、ワイルドでタフネスなところしか出てこない。
僕はプーチンに恨み言を言いたくなる。なぜ、もっとラブリーでキュートな方でなかったのですか? せめて、元ウクライナ首相のユーリヤ・ティモシェンコさんぐらいの美人で可愛い方ならばよかったのに。でもまあ、ティモシェンコも、ガスの女王と呼ばれるような強面さんなのですが。
何かないかな。プーチンのラブリーなエピソード。
僕は賢明に脳内ライブラリを検索して、一つの情報をヒットさせる。あった。一つだけ、強面のプーチンにキュートなエピソードが。
「鷹子さん! プーチンは愛犬家です!」
「ほうっ!」
鷹子さんが食いついてきた。
「プーチンは、愛犬コニーをたいそう可愛がり、そのお産を徹夜で世話したそうです!」
鷹子さんの表情が柔らかくなる。
「何だよ、プーチン。いい奴じゃねえか!」
鷹子さんは嬉しそうに笑いながら、僕の背中をばんばんと叩く。痛い、痛いです! でも、拳骨でぶん殴られるよりはましなので、懸命に耐える。
「ねえ、サカキくん」
ずっと沈黙していた楓先輩が、声をかけてきた。
「何ですか、楓先輩?」
僕は、危機を脱した気軽さで、陽気に返事をする。
「プーチンさんって、三十一年ほど連れ添った奥さんと離婚したよね」
うっ。楓先輩は真面目な人だから、ニュースをきちんと見ている。だから、プーチンの離婚も把握していたようだ。
部室の空気が変わる。楽しそうにしていた鷹子さんが、気配を変え、殺気を放っている。やばい。これは、とてもやばい。
「何だよ。プーチンって野郎は、ダメ人間じゃねえか!!!!」
鷹子さんは大声で吠えて立ち上がる。
ええ~~~~っ! 無茶を言わないでくださいよ。相手は国家元首ですよ。いい奴とか、野郎とか、ダメ人間とか、隣の家のおっさんみたいに扱わないでくださいよ~~~~~!
「サカキ! 私は、プーチンなんて野郎とは違う!」
「ぎゃふん!」
僕は、脳天に拳骨を叩き落とされた。鷹子さんは荒ぶる闘気を抑えきれず、次の喧嘩相手を求めて部室を出ていった。
えー、あのー、確かにプーチンとは違いますね。プーチンさんは、鷹子さんと違って冷静で冷徹な方だと思いますので。
それから三日ほど、楓先輩はロシアの恐ろしいエピソードを僕に求め続けた。そのたびに僕は、ネットを検索して、おそロシアな話を紹介した。三日調べても、まだまだ出てくるんですけど。僕は、ロシアの恐ろしさを改めて知り、ガクブルした。