第76話「くぁwせdrftgyふじこlp」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、ルパン三世も真っ青な自由人たちがそろっている。そして日々、己の欲望に従った活動を続けている。
かくいう僕も、そういったお宝収集に明け暮れる人間の一人だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、はた迷惑な人間ばかりの文芸部にも、きっちりとした人が一人だけいます。ルパンの一味に紛れ込んだ、清楚なお姫様。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向けた。先輩は、軽やかに僕の許にやって来て、隣に座る。そして上目づかいで、僕を見上げてくる。可愛い目に、眼鏡のフレームがわずかにかかっている。僕は、思わず抱きしめたくなるのをがまんして口を開いた。
「どうしたのですか、先輩。またネットで、知らない単語に遭遇したのですか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットに精通しているわよね」
「ええ。どんなお宝情報も見逃さないネット怪盗です」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
僕は知っている。先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、家で書くためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで言葉の海原に遭遇した。そのせいでネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。
「くぁwせdrftgyふじこlp、って何?」
楓先輩は、舌をかみそうな様子で、一文字ずつ区切って発音した。
ああ、そんなに苦労して口にしなくてもよいのに。その言葉は、声にならない悲鳴や断末魔を示す言葉だから、読み上げる必要はないのですから。これはいわば、クトゥルフの邪神の名前のようなものです。人類には発音不可能、それを正しく言うだけで発狂しかねない。そんな音声化できない言葉。それが、うわ、何をすくぁwせdrftgyふじこlp……。
「あれ、どうしたのサカキくん? 急に白目をむいて止まってしまって」
「はっ! 危ない危ない、人類が知ってはいけない知識に触れかけてしまいましたよ」
先輩はきょとんとする。知らぬが仏。この世には、知ってはならないこともあるのだ。そんな怪しい知識に飲み込まれそうになった僕は、まるでバグったように、思考を停止させていたのである。
「ねえ、サカキくん。それで、くぁwせdrftgyふじこlp、って何?」
まるで、舌足らずの幼女のように、楓先輩は一生懸命その言葉を発音する。
うんうん、こういった様子もよいものだ。可愛い女の子が、努力しながら難しい言葉を言おうとする。その姿は、なかなか萌えるものである。
「それじゃあ説明しますね。くぁwせdrftgyふじこlpは、通称『ふじこ』と呼びます。また動詞として使う場合は、『ふじこる』と言われることもあります。
この言葉は、ネットの掲示板で立てられた『キーボードの上から三段目と四段目を二本指で左からダーすると』スレが発祥だと言われています」
楓先輩はきょとんとする。
「ねえ、サカキくん。『キーボードの上から三段目と四段目を二本指で左からダーする』って、どういうこと?」
まあ、分からないよなあと思いつつ、僕はパソコンのキーボードを楓先輩に示す。
「いいですか。パソコンのキーボードは、こういった風に文字が並んでいますよね」
F1 F2 F3 F4 F5 F6 F7 F8 ……
1 2 3 4 5 6 7 8 9 0
Q W E R T Y U I O P
A S D F G H J K L
Z X C V B N M
「この三段目と四段目を見てください」
Q W E R T Y U I O P
A S D F G H J K L
「ジグザグに入力していくと、『QAWSEDRFTGYHUJIKOLP』となります。これを、変換すると『くぁwせdrftgyふじこlp』になるのです。
パソコンの文字変換ソフトはいろいろあり、そのソフトによって変換結果は異なります。でもだいたいの場合、変換結果に『ふじこ』という平仮名が入ります。これは『HUJIKO』というアルファベットの並びがあるからです。だから通称『ふじこ』と呼ばれているのです」
楓先輩は、指を立てて、一つずつキーを押していく。そして、変換をおこない、「おおーっ」と感心した声を上げた。
「なるほどね。この言葉に、こんな入力方法が隠されているなんて知らなかったわ。手書きで文字を書いていたら、絶対に出てこない言葉ね」
先輩は興奮気味に語る。
「ええ。亜種も多いので、それも示しておきますね。キーボードをダーとして変換するだけなので、派生パターンが簡単にできてしまいますから」
くぁwせdrftgyふじこlp;@:「」
くぁw背drftgy藤子lp
qあwせdrftgyふじこlp;@:
qawsedrftgyhujikolp
たちてといしすはかきんくなまにのらりせ
くぁzwsぇdcrfvtgbyhぬjみk、おl。p
くぇrちゅいおぱsdfghjklzxcvbんm
1くぁz2wsx3えdc4rfv5tgb6yhn7うjm8いk、9おl。0p;・-@:¥^「」¥
pぉきじゅhygtfrですぁq
くぁwせdrftgyふじこlp;「’」
くぁwせdrftgyふじこlp;@:「」748596+
くぁwせdrftgyるぱんlp;@:
パソコンの画面が、かなりカオスな状況になってしまった。
「ねえ、サカキくん。最後の『るぱん』って何?」
楓先輩は、「くぁwせdrftgyるぱんlp;@:」を指で示しながら尋ねる。
「ああ、これは少し説明しましょう。『ふじこ』という三文字は、『ルパン三世』のヒロイン『峰不二子』を連想させます。そのことから『ふじこ』の部分を、『ルパン三世』の登場人物に変えることもあるのです。
この文字の羅列は、『ふじこ』という文字の並びから、『峰不二子』に関連付けられることがよくあります」
僕は、峰不二子が、美人でお色気たっぷりの、やんちゃで奔放なお姉さんであることを説明する。
「この『くぁwせdrftgyふじこlp』の意味は、言葉にならない悲鳴や断末魔になります。また、秘密の暴露を妨害される際にも利用されます」
「暴露の妨害って、どういうこと?」
楓先輩の質問に、僕は笑顔で答える。
「これは、お約束のシチュエーションという奴です。
たとえば、人類が知ってはならない秘密、あるいは政府の陰謀で隠されている秘密を暴露しようとする。そういった人物には、背後から忍び寄る黒服の影が……。そして、秘密をネットに書き込む途中で襲われて、その秘密を最後まで書けずに、断末魔の悲鳴を上げるのです。
うわ、何をすくぁwせdrftgyふじこlp……。
そういった美しい定番ギャグとして、ふじこは利用されるのです」
僕は、ふじこの秘密を語る。ふじこの秘密自体は、隠されたものではないから、背後から殺されることもない。
「へー、なるほど。でも何で、断末魔とふじこが結びついたの?」
「これは、おそらく昔からミステリー小説などであるダイイング・メッセージや、クトゥルフ小説などの定番シチュエーションのパロディでしょうね。
ミステリー小説のダイイング・メッセージでは、文字の一部がかすれていたり、ぐちゃぐちゃになっていたりして、何を書いているか判別できないといった状況がよく使われます。また、殺された時にタイプライターを使っていて、よく分からない文字が入力されているという設定も存在します。
そういったダイイング・メッセージの延長として、パソコンで文章を書いていたら、背後から殴られて、まるでピアノの鍵盤が鳴り響くように、キーボードの上から三段目と四段目を左からダーとする状況が生まれるのだと思います。
まあ実際には、そんな器用な死に方はできないのですが。
後者は、クトゥルフ系の短編小説によくあるシチュエーションです。旧神の秘密を知ってしまった人間が、その内容を手記に残す。そして死の直前まで、なぜか文章を書いて、そろそろ死にそうな自分を実況する。
こういった話は、ネット以前の時代では、そんな馬鹿な状況があるかと、ネタ扱いされていました。しかし、リアルタイムでネットで発言する時代になり、それが現実に即した状況だと分かり、多くの人々が慄然としました。
自然災害やテロ。そういった状況で、死の直前まで、自分に起きていることをネットに書き込む。人間には、そういった欲求がある。そのことが図らずも立証されたからです。
こういった、死が迫る状況で文章を書き、何者かに襲われてキーボードの上から三段目と四段目を左からダーとして死亡する。そういったネタとして、ふじこは利用されるのです」
楓先輩は、なるほどといった顔をする。小説好きの楓先輩には、こういったパロディはよく分かるだろう。今回は説明の内容が、楓先輩には随分身近に感じられたのではないかと僕は思う。
「ねえ、サカキくん」
「はい、先輩」
「私、このふじこを実際に使ってみたいの」
「そうですね。そのためには、何かそういった状況が必要ですね」
僕は腕を組んで考える。そのためには、楓先輩が人類に隠された秘密に迫らなければならない。あるいは国家や闇の機関といった、組織に付け狙われそうな状況を作らなければならない。とはいえ、あまり壮大な話は、控えめな性格の楓先輩には向いていないだろう。僕は脳をフル回転させて、適切なシチュエーションをひねり出した。
「楓先輩は、この文芸部に隠された秘密を知っています。そして、そのことを誰かに伝えようとしています」
あれ? 楓先輩に合わせると、随分話が小さくなってしまうなあ。
「うん。やんごとなき秘密を手にしているね。サカキくんに、ばれたら困るわね」
えっ? なぜ僕限定なのですか。そのことには突っ込まず、話を先に進める。
「その秘密を、部室の備品のパソコンに入力しようとしています。どうぞ、このパソコンを使ってください」
僕は体を動かして、楓先輩がキーボードを使いやすいようにする。僕は、先輩がどんな秘密を書き込もうとするのか注視する。
「えーと」
先輩は人差し指を立てて、文字を打ち込んでいく。
――文芸部の秘密。
ふむふむ。どういった内容なのかな?
――この部室にいる時間は、サカキくんが一番くぁwせdrftgyふじこlp
楓先輩は、キーボードの上から三段目と四段目を、左からダーとした。
「ちょっと、待ってくださいよ先輩。秘密が、ダダ漏れじゃないですか! 隠れてませんよ! それに、僕はそんなに長く部室に常駐していないです。とっても忙しい学生生活を送っていますから!」
僕は、不当な判決だとばかりに抗議する。楓先輩は、首をわずかにすくめる。そして上目づかいに僕を見て、口を開いた。
「だって、昼休みに部室に来て、一人でご飯を食べているのを、何度か見かけたから」
「くぁwせdrftgyふじこlp」
僕は、触れられたくない秘密に触れられて、声にならない悲鳴を上げた。
それから三日ほど、僕が昼休みに部室に行くと、楓先輩がいて、一緒に食事をしてくれた。
ああ、秘密の共有っていいものだなあ。三日間だけのボーナスステージだったけど、僕はとても得した気分になった。