第75話「今北産業」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、痛い面々がそろっている。そして日々、不毛な活動を続けている。
かくいう僕も、そういった困った人生を送る人間の一人だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンで、ネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、情けない人生を送る人間ばかりの文芸部にも、どこに出しても恥ずかしくない人が一人だけいます。泥んこ悪ガキに紛れ込んだ、白いシャツの女の子。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向けた。先輩は、ととととと、と駆けてきて、僕の横にちょこんと座る。そして楽しそうな顔で、僕を見上げてくる。ああ、何て可愛いんだ。僕は、思わず触れたくなるのをがまんして語りかける。
「どうしたのですか、先輩。またネットで、知らない単語に遭遇したのですか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットに詳しいわよね」
「ええ。国会図書館クラスの知識を有しています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
僕は知っている。先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、家で書き直すためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、言葉の海原に遭遇した。そして現在、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。
「今北産業について教えて」
今来た
三行で
教えろ
思わず、そう答えたくなってしまう。今北産業は「今来たばかりの私に、これまでの流れを三行で説明してくれ」の略である。普通に略すと「今来た三行」だが、ネットスラングらしい変換が入り「今北産業」になっている。
僕がそのことを説明しようとすると、楓先輩は自分の考えを述べ始めた。
「今北産業は、どこかの会社の名前よね。産業って付いているから」
「いや、あの……」
楓先輩が、あまりにも真面目な顔で言うので、僕は思わず突っ込みそびれる。
「ねえ、サカキくん。今北産業って、何をしている会社なの?」
あー、えー、会社ではありませんよ。それではまるで、月極駐車場のネタみたいじゃないですか。
月極家の支配する月極グループ。彼らが擁する月極駐車場は、日本最大の駐車場運営会社である……。
この手のネタには、株式会社定礎もある。株式会社定礎、それは日本最大のビルオーナー会社。数多のビルを管理し、その勢力範囲は日本全国に広がっている……。
そういった古くからあるネタと、同じレベルになってしまいますよ。
とりあえず僕は、あとでジョークだと明かそうと思いながら、「今来た三行」の本来の意味に沿った事業内容をでっち上げる。
「情報分野の事業のはずです。文章要約のサービスをしています」
あながち嘘ではない。まあ、最後に本当のことを言えばよいだろう。
「それでね、サカキくん。今北という名前なんだけどね、創業者の苗字か、地域名だと思ったの。それで、家の本や地図を調べてみたら、兵庫県尼崎市に今北地区というのがあったの」
「ふわっ?」
僕は思わず声を上げる。マジですか? ギャグで流そうと思っていたら、そういった地名の場所があるのですか?
「ちょ、ちょっと待ってくださいね」
僕は楓先輩から見えないように、スマホで今北産業を調べる。
げげっ。どこかの誰かさんが悪乗りして、今北産業の企業ホームページを作っている。それだけでなく、アンサイクロペディアには、今北産業の住所や創業者の名前までが載っている。
住所は、楓先輩が調べたのと同じように兵庫県尼崎市だ。無駄にネタが凝っている。これは、勘違いする人が出てしまうぞ。
やばいやばい。気軽に冗談も言えない。ネットは罠に溢れている。僕は、自分の言葉を訂正しようとする。しかし、それよりも早く、楓先輩が口を開いた。
「社会の授業でね、会社を一つ調べて、その概要をまとめようという宿題が出たの。だから、最近ネットでよく見る今北産業について書こうと思ったの。
でも、家の本にも記述がないし、図書館にも情報がないし、新聞の縮刷版にも、それらしい名前は見当たらなかったの。どうも上場企業じゃないみたい。それで、どうしようかなと思っていたところなの」
ぶっ! 僕は、心の中で盛大に噴いてしまう。
楓先輩の中で、今北産業が実在の会社として立ち上がっている。そういえば、いつもは「何々って何?」と聞いてくる先輩が、今日に限って「何々について教えて」と尋ねてきた。その微妙なニュアンスの違いに、僕は気付いていなかった。
ああ、何という注意不足だ。これが戦場ならば、僕は敵の罠にはまって捕まっていただろう。そして、裸にされて、縄で縛られて、ボンデージ姿の女性士官に、鞭で叩かれたり、股間に打撃を加えられたりしていたところだ。
よかった、ここが平和な日本で。僕はまだ、そんな変態世界に足を踏み入れたくはないですよ。
何はともあれ、楓先輩の誤解を解かなければならない。このままでは楓先輩は、社会の宿題で、今北産業についてのレポートを書いてしまう。そして、先生に白い目で見られてしまう。
真面目で素直な楓先輩を、そんな目に遭わせるわけにはいかない。ここは僕が、叱責を浴びても、楓先輩に本当のことを伝えるべきだ。
「先輩!」
僕は、意を決して声を出す。
「何、サカキくん?」
楓先輩は、僕に体をぴったりと寄せて尋ねる。
「今北産業は、実は会社の名前ではありません」
「えっ?」
「すみません、調子に乗っていました」
「どういうことなの?」
先輩は、狐につままれたような顔をする。
「今北産業は、ネットのスラングです。『今来たばかりの私に、これまでの流れを三行で説明してくれ』、というフレーズを略した『今来た三行』に、違う漢字を当てたものです。
たとえば、今の楓先輩との会話を三行で説明するとこうなります。
楓先輩
今北産業を
実在の会社と誤認
今北産業は、ネットの掲示板などで、あとからやって来た人が、これまでの流れを教えて欲しい時に使う言葉なのです。人によっては、『産業で』『三行で』などとも書きます。
この今北産業の考え方は、高度化された情報化社会では非常に有用なものです。スマートフォンなどで大量のニュースを読む際は、要約された概要、特に三行程度のものは非常に役立ちます。そのため、今北産業の思想を取り入れたサービスも出てきています。あながちビジネスに無関係な言葉ではないのです」
僕は今北産業について、そのビジネス的な広がりも含めた解説をおこなう。これで、楓先輩が納得してくれれば、よいのだけれどと思った。
「つまり、今北産業は、実在の会社ではなかったということ?」
「そうです。非実在営利団体だったのです!」
僕は説明を、そう締めくくった。
楓先輩は、しょんぼりとする。社会の宿題の下調べが、すべて無駄になったからだろう。僕は、そんな楓先輩を慰めるために、別の提案をしてみることにした。
「大丈夫ですよ、楓先輩! その代わり、他の会社について書けばよいのです。たとえば、月極グループとか、株式会社定礎とか……」
「それは嘘会社でしょう~~~。
月極駐車場の月極は、一ヶ月単位で契約する意味のツキギメで、ビルによく書いてある定礎は、建物を作り始める際に礎石を据えることって、知っているわよ~~~」
しまった。今北産業の流れで頭に浮かんでいた、偽会社の名前を言ってしまった。
「ねえ、サカキくん。他に、知っている会社はないの?」
「そうですね。株式会社典雅とかですかね」
楓先輩は、その名前をメモした。
翌日、部室にやって来た楓先輩は、僕に対して少し怒った顔で言った。
「サカキくんの紹介してくれた会社は、エッチな会社だった」
「す、すみません」
僕の紹介した株式会社典雅は、男性用性補助器具であるTENGAを作っている会社だった。
「サカキくんって、基本的にエッチだよね」
「そ、そうですね」
僕は、楓先輩に平謝りして、一生懸命に機嫌を直してもらった。