雲居 残月 の 小説道場

主に「小説家になろう」で書いた話を中心に、小説投稿をおこなっていきます。

第51話「ふぇぇ」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』

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 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、妖怪アンテナに反応しそうな魑魅魍魎が集まっている。そして日夜、放課後のどんちゃん騒ぎを繰り広げている。
 かくいう僕も、そういった妖気漂う人間の一人だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンで、ネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。

 そんな、怪しい面々ばかりの文芸部にも、きちんとした人が一人だけいます。妖怪大運動会に紛れ込んだ、人間の女の子。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。

「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」

 間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を上げた。楓先輩は、ととととと、と笑顔で駆けてきて、僕の横にふわりと座る。その動きに合わせて、三つ編みの髪が軽やかに揺れた。僕は、先輩の顔を見下ろす。先輩は、無邪気な様子で僕の顔を見上げる。少し動けば、唇が触れそうな距離で、僕と楓先輩は会話を始めた。

「何ですか先輩。また、ネットで知らない単語を見つけたのですか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットのベテランよね」
「ええ、太古の時代から、ネットを見つめ続けています」
「その、サカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」

 僕は知っている。先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、気の済むまで書き直すためだ。そして楓先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。切っ掛けは、オンラインの辞書を利用するためだった。そのついでに、ネットも閲覧した。その結果、先輩はネットに豊穣な文字の海があることを知った。そして現在、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。

「ふぇぇ、って何?」

 楓先輩は、可愛らしい口調で言う。ああ、僕は感動する。先輩の形のよい唇から、思わず守ってあげたくなるような台詞が、飛び出すとは。
 ネットスラングの疑問を解決し続けて、ようやく巡ってきた幸福。僕は、その素晴らしさを堪能しながら、先輩の疑問に答える。

「ふぇぇ、というのは、ネットでよく用いられる幼女のテンプレートです。明確な元ネタはなく、幼い少女が泣き声を漏らしたり、気弱な女の子がおどおどしたり、また、恐ろしいものや半端ないものに対しておびえたりする際に、漏らす言葉です。
 使用シーンについても解説しましょう。ネットでは、たとえ書き手が男性であっても、わざと可愛らしく振る舞うことがあります。顔文字や絵文字を文末に付けるのも、そういった行為の一つです。ふぇぇは、それがテンプレートであるために、恥ずかしくなく利用することが可能な言葉です。でもやはり、マンガなどで、幼女が使うのが一番可愛らしいですけどね」

 気軽な感じで、ふぇぇの説明をしたあと、僕は、どこからともなく鋭い視線でにらまれていることに気付く。いったい、何だ? 振り向くとそこには、僕の苦手な相手、一年生の氷室瑠璃子ちゃんが座っていた。

 瑠璃子ちゃんは、その名の通り、僕に対して氷のように冷たい女の子だ。だが、瑠璃子ちゃんの特徴は、それだけではない。どう見ても、小学校低学年にしか見えないその外見。そして人形のように整った顔。その姿と、目付きと、きつい性格のせいで、「幼女強い」という謎の陰口を叩かれている女の子だ。
 その瑠璃子ちゃんは、なぜか僕に厳しい。「なぜ、そんなに効率的にゼロ点を取れるのですか」とか、「遊んでばかりいないで勉強をしてください」とか、「少しは体を動かして、まともな人間になってください」とか、世話焼き女房のように、いつも小言を言ってくる。僕のガラスのハートは、そのたびに粉々に砕けそうになる。瑠璃子ちゃんの言葉の暴力に、僕はいつも打ちのめされている。

 僕は、瑠璃子ちゃんの姿を、そっと見る。そういった強者の瑠璃子ちゃんが、僕に鋭い視線を向けている。なぜだろう? 僕は記憶をたどる。そういえば小学五年生の時に、ふぇぇについてのやり取りがあった。僕は、そのことを思い出す。

 その時期、僕は小学五年生だった。僕は小学校の高学年になり、その高みから、学校制度というものの不可思議さについて、哲学的な洞察を重ねていた。なぜ、小学生は学年が上がっていくのか。その疑問は、人はなぜ生まれて死ぬのかということと、同じぐらい深く難しい命題だった。

 僕は、そういった思考を脳の片隅でおこないながら、図書館で本を読んでいた。「人体の不思議、第九巻、人間の性」というお気に入りの一冊だ。横には、瑠璃子ちゃんが座っている。彼女が読んでいるのは、「人体の不思議、第十巻、人間の知性」だった。
 そう。瑠璃子ちゃんの方が、僕よりも先に「人体の不思議」を読破しそうなのだ。そして、僕は「性」について勉強し、瑠璃子ちゃんは「知性」について学んでいた。

「ねえ、瑠璃子ちゃん」
「何ですか、サカキ先輩」
「瑠璃子ちゃんは、周りの女の子たちよりも、発育が遅いように思えるのだけど」

 僕は、本の図表を見ながら尋ねる。第二次性徴。それは、人が幼虫から成虫に変わる変化である。早い子であれば、小学校でもそれが始まる。しかし、身長がほとんど伸びていない瑠璃子ちゃんに、そういった変化が訪れるのは、まだまだ先のように思えた。

「まあ、人それぞれですから」
「そうだね。瑠璃子ちゃんは、永遠の幼女かもしれない。それも、一つの生きる道だろうね」

 ページをめくりながら、僕は一つのことを思い付いた。瑠璃子ちゃんは、気が強く、厳しく、高圧的だ。外見は幼女だけど、中身はお姉さんみたいな存在だ。その瑠璃子ちゃんに、幼女らしいことをしてもらってはどうだろうか。それは、とてもよいアイデアだと、僕には思えた。

「ふぇぇ、って知っている?」
「ふぇぇ、ですか?」

 瑠璃子ちゃんは、力強い口調で言う。

「違うよ。もっと気弱で、おどおどした様子で、ふぇぇ、って泣きそうな感じで言ってみてよ」
「ふぇぇ」

 駄目だ。瑠璃子ちゃんの性格とは反対だ。これは無理そうだなと諦める。

「ごめん、瑠璃子ちゃんには無理みたいだ」
「そんなことはないと思いますけど。私に、できないことはありません!」

 あれ? 何か、変なところで火が付いてしまったようだぞ。瑠璃子ちゃんは、むきになって拳を握る。

「サカキ先輩!」
「何? 瑠璃子ちゃん」
「私、ふぇぇ、の特訓をします!」
「えっ?」
「三日後、午後四時、この場所で、その特訓の成果を披露します。その時までに、私は、ふぇぇ、の使い手になっておきます」
「う、うん……」

 僕は、瑠璃子ちゃんの勢いに押されて、ふぇぇ披露の約束をさせられてしまった。

 三日後、僕は小学校のお勤めを果たしたあと、再び人間の性について理解を深めるために、図書館を訪れた。
 そういえば今日は、瑠璃子ちゃんのふぇぇの日だった。あれから三日が経っている。男子三日会わざれば刮目して見よ、という言葉がある。瑠璃子ちゃんは、女子だ。しかし、心の強さは、猛き男児に匹敵する。彼女ならば、特訓に特訓を重ねて、ふぇぇを身に付けていてもおかしくはないだろう。
 僕は、瑠璃子ちゃんのふぇぇに心を砕かれるかもしれない。そういった恐れと期待を胸に抱きながら、僕は瑠璃子ちゃんが姿を現すのを待った。

 午後四時五分前に、瑠璃子ちゃんは現れた。その顔は自信に溢れ、口元には不敵な笑みが浮かんでいる。これは、修得したかもしれない。僕は、これからのふぇぇに備えて、身を引き締める。瑠璃子ちゃんは、一歩、一歩確かめるような足取りで、僕に近付いてきた。

「三日ぶりですね、サカキ先輩」
「うん。この三日で、瑠璃子ちゃんは、何かを会得したようだね」
「ええ」

 瑠璃子ちゃんは、鋭く僕を見る。ああ、敗北を知るのも悪くない。僕は、そう思った。

「では、さっそく、ふぇぇを執りおこないます」

 僕は静かに頷く。その破壊の力を全身で受け止めるために、僕は瑠璃子ちゃんに正対する。

「ふぇぇ」

 瑠璃子ちゃんは、気弱なポーズを取り、おびえたような顔をして、その台詞を口から漏らす。三日前に比べれば雲泥の差だ。その上達ぶりに僕は息を呑む。しかし、何かが違う。決定的な何かが欠けている。
 僕は、それが何なのかを考える。それは、無心の境地だ。瑠璃子ちゃんの、ふぇぇには、まだ作為の臭いが残っている。僕は、そのことを指摘するために、口を開いた。

「違うんだ、瑠璃子ちゃん。君のは、上辺の演技だ。心から、その役になり切らなければならない。
 メソッド技法を知っているかい? ロシアで活躍したコンスタンチン・スタニスラフスキー。その影響下にあるリー・ストラスバーグらの演技手法だよ。役柄の内面に注目して、感情を追体験することで、リアリティ溢れる演技をおこなうというものだ」

 瑠璃子ちゃんは、僕の台詞に身を固くする。自分の演技が否定されたことで、緊張しているのだ。僕は、瑠璃子ちゃんのふぇぇを完成に導くために、一つのシチュエーションを想定する。そして、その時の内面から、ふぇぇにいたることができると確信した。

「一人の幼女が、図書館でおしっこを漏らしてしまう。その時の、驚きと恥ずかしさと心細さを想像して、ふぇぇと言ってみるんだ。きっと上手くいくはずだよ」

 僕は、自分の台詞に満足する。

「分かったわ。サカキ先輩。私、想像する!」

 瑠璃子ちゃんは、精神を集中して、役になり切る。その時である。あまりにも役に入り込みすぎた瑠璃子ちゃんは、本当におしっこを漏らしてしまったのだ。

「ふぇぇ」

 泣きそうな顔で瑠璃子ちゃんは、声を出す。

「それだ! その、ふぇぇだ!!!」

 僕は、感動と興奮に包まれながら声を上げる。その時である。大人の声が、僕たちに投げかけられた。

「図書館で騒いではいけません!」

 やって来た先生は、僕たちを見て驚く。おしっこを漏らしている瑠璃子ちゃんと、その様子を見て喜んでいる僕。その姿は、どこからどう見ても変態だった。その日以降、僕と瑠璃子ちゃんの間では、ふぇぇの話題は、タブーとなったのである。

 僕は、現代の文芸部の部室に意識を戻す。あまりにも長い時間、過去に戻っていたために、楓先輩は、きょとんとしている。そして、怒った顔の瑠璃子ちゃんの視線が僕に注がれている。

「サカキ先輩。ちょっと、部室の外に行きましょう」
「は、はい……」

 僕は、瑠璃子ちゃんに部室の外に連れ出されて、小学五年生の時の事件で、再び怒られてしまった。
 それから三日ほど、楓先輩は覚えたての「ふぇぇ」を、一日に四、五回は口にした。そのたびに僕は、瑠璃子ちゃんににらまれて、部室の外に連れていかれた。