第38話「ぼっち」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、自由奔放な者たちがそろっている。彼らは興味の赴くままに、怪しい活動を続けている。
かくいう僕も、そういった人間の一人だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンで、ネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんながっかり系の人間が集う文芸部にも、真面目な人が一人だけいます。いたずら子ザルの群れに紛れ込んだ、おとなしい女の子。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕はパソコンの画面から顔を上げた。楓先輩が、ととととと、と僕のところまでやって来て、ふわりとスカートをゆらして、僕の横に座る。甘い香りがして、僕は思わず笑みを漏らした。楓先輩は、にっこりと微笑み、僕に顔を向ける。
「何ですか先輩。新しい単語を発見したのですか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットに詳しいわよね」
「ええ、マエストロです。ファンタジスタと呼んでいただいても構いませんよ」
「その、サカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
僕は知っている。先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を何度も書き直すためだ。そして楓先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。切っ掛けは、オンラインの辞書を使用するためだった。その時、ついつい、ウェブブラウザに手を伸ばした。そのせいで、ネットの海に、未知の日本語があることを知ってしまった。そして現在、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。
「ぼっちって何?」
ああ、先輩は、この言葉を知らないんだ。最近は辞書にも入るようになったこの単語は、元々はネットのスラングである。
ぼっちは、一人ぼっちの略。この一人ぼっち自体も、独り法師が転じたものだ。宗派や寺に属さず、一人で暮らす法師を指すもので、集団生活を送れずに、弾きだされた者を指す蔑称に近い。その一人ぼっちの、法師の部分だけが取り出されて一般化したのが、ぼっちという言葉である。
「ネットには、ぼっち系の言葉が多いですからね」
「ぼっち系?」
楓先輩は、きょとんとした顔をする。
「ぼっちは、一人ぼっちの略なんです。ネットには、そういった、孤独な人を指したり、そういった人の生態を言い表したりしたような言葉が多いんです」
僕は、便所飯やコミュ障、KY、エア友達やヒトカラなどの言葉を思い浮かべながら言う。
「ネット社会では、一般社会ではクローズアップされることの少なかった、孤独な人たちにスポットライトが当てられることが多いんです。ぼっちは、その代表的な言葉ですね」
「なぜ多いの?」
楓先輩は不思議そうな顔をする。そういった、ぼっち文化は、ネット社会に詳しくない先輩には、上手く感じ取れない部分だろう。
僕は真面目な顔をする。そして、これはチャンスだと思う。ここで、非常に的確かつ、深い洞察を述べれば、先輩は僕のことを尊敬するだろう。沈思黙考、語る時には、微に入り細を穿つ。僕は何となく、楓先輩の好みは、そんな人ではないかと推測している。
そう、僕のような人間こそが、楓先輩の好む人間に違いないのだ。僕は、社会学者のように社会を俯瞰した顔をして、楓先輩に、なぜぼっちがネットで重要なキーワードなのか語り出す。
「人間は社会性の動物です。そのため、暮らしていくためには、コミュニケーション能力が求められます。その能力は、他人に好まれる姿や振る舞いをする力だったり、他人の考えていることを上手く読み取る力であったりします。また、自分の時間を割いてでも、他人と交わろうとする。そういった行動パターンや努力だったりします。
そういった能力や努力が欠けている、あるいは、そこにコストをかけられない人が、現実社会では一人ぼっちになります。
しかし、ネットでは、このコミュニケーション能力の基準が変わります。そして、これまでの社会関係がリセットされます。
まず、能力に関しては、相手の姿が見えないことにより、姿や振る舞いが無視されます。また、リアルタイムの双方向のコミュニケーションではないために、周囲の空気を読む能力も必要とされなくなります。孤独な時間の内省だった独白が、そのまま文章として出力することで、疑似的な会話となります。
つまり、現実社会でぼっちだった人が、そうでないように、振る舞うことが可能になるのです。そして、そのことに突っ込みを入れる、普段の友人や知人とも距離を置くことができます。そのため、恥ずかしがることなく、いつもと違う自分を演じることができるのです。
そのため、現実社会では目立たなかった人が、ネットでは注目される現象が発生します。それは、現実社会でのコミュニケーション不足を、ネットで補うといった側面もあるからです。そういった、現実社会ではぼっちだけど、ネットでは活躍している人は、ネットには多数います。そして彼らは、孤独な人間を指す言葉に過敏に反応します。
このような背景があるため、ぼっちのような用語は、ネットで、よく議論の俎上に上げられるのです。また、そうでない人たちが、ぼっちの人を揶揄する目的で使うことが、よくあるのです」
僕は得意げに、自分の考察を披露する。楓先輩は、真面目な顔で聞いたあと、わずかに困った顔をした。あれ? 僕の説明は、何か問題があったかな?
「ねえ、サカキくん」
「何ですか、楓先輩」
「つまり、ぼっちというのは、他人と協調することが苦手で、周囲と積極的に交流しようとせず、一人で過ごすことが多い人を指すのよね? また、そこから派生して、現実社会では孤独に過ごしているのに、ネットでは積極的に発言する人のことも含めるのよね?」
「ええ、そうです」
「それって、サカキくんのことじゃないの?」
「へっ?」
僕は心の中で、「ホワッツ!」と外人のような叫び声を上げる。僕がぼっちですって? いえいえ、ご冗談を。僕は、自分が述べた、ぼっちの特徴を思い出す。
一つ目は、他人に好まれる姿や振る舞いをしない、あるいはできない。ええと、大丈夫だと思うけど、もしかしてできていませんか?
二つ目は、周囲の空気を読む能力。僕はあると思うのだけどなあ。ないのかなあ。
三つ目は、人と積極的に交わらない、あるいは、孤独な状態に自分を置く。これは少し当てはまるかもしれないなあ。
とはいえ、僕は、楓先輩の意見には賛同できない。僕は、楓先輩に、なぜ僕のことをぼっちだと思うのか尋ねてみた。
「だって……」
楓先輩は、心配したような顔をして言う。
「部室では、いつも一人でパソコンのモニターを見ているし……」
うっ、言われてみればそうかも。
「話す時と、話さない時の落差が大きくて、あまりコミュニケーションが得意という感じではないし……」
ああ、そう見えるんだ僕。
「人にどう見られるかを気にしているような、行動や言動ではないし……」
うっ、おっしゃる通りかもしれません。
「クラスでも、ほとんど本を読んでいるか、スマートフォンを見ているかだって、鈴村くんが言っていたし……」
ぬおっ、鈴村くん。僕を裏切る気ですか?
「よく一人で、ぐふぐふ言っているって、睦月ちゃんから聞いたし……」
そ、それは、面白いサイトを見つけたからですよ、きっと!
「だから、サカキくんは、学校でぼっちなんじゃないかと思ったの」
ああ、僕は、そんな心配をされていたんだ。これは、きちんと誤解を解いておいた方がよい。僕は、ぼっちでもなければ、コミュ障でもなく、明るくて活発で、楽しいみんなのサカキくんなのだから。
「……あと、口に出さず、いつも何か、高速で考え事をしているみたいだし」
そ、そ、その通りです。ええ、ええ、僕は、そんな奴です。確かに、他人と交わらず、内にこもって、ぐふぐふ言っているような人間です。そうですね。
僕は、グロッキー状態になって立ち上がり、ふらふらと部室の中をさまよい歩く。そして、覚束ない足取りで、窓際にたどり着く。そうか、僕は、ぼっちだったんだ。そして、ネット内だけで積極的にコミュニケーションする、そんな奴だったんだ。
「先輩、僕はぼっちに見えますか?」
「うん」
「部室でも?」
「だと思うよ」
僕は、しおしおと、その場に倒れ込んだ。
それから三日ほど、僕はぼっちの汚名を返上するために、部室で明るくしゃべり続けた。そして、ちょうど三日経った時、先輩が心配そうな顔をして、僕に声をかけてきた。
「大丈夫、サカキくん。何かあったの?」
何もありませんよ! どうやら僕は、快活に振る舞うと、何かあったと思われる人間らしい。オーマイガッ! 自分が他人にどう見られているかは、さっぱり分からないや。そう思い、僕は大いに落胆した。