雲居 残月 の 小説道場

主に「小説家になろう」で書いた話を中心に、小説投稿をおこなっていきます。

第3話「賢者タイム」-『部活の先輩の、三つ編み眼鏡の美少女さんが、ネットスラングに興味を持ちすぎてツライ』

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 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、奇特な人間たちがいる。危篤ではない、奇特だ。でも、人生が危篤状態な人が集まるという意味では、間違っていない気もする。
 僕はその文芸部に所属する榊祐介である。二年生になる僕は、厨二病まっさかりのお年頃だ。そんな僕が、部室でやっていることといえば、備品のパソコンで、ネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
 でもね、それだって、何かの役に立つんですよ。人生で無駄なものなんかない。そう、昔のエロい人、もとい、偉い人が言っていたような気がするんですよ。だから僕は、人生を前向きに堪能するために、毎日ネットの辺境の地を巡回しているんです。

 そういった文芸部にも、まともな人は存在する。掃き溜めに咲く、一輪の可憐な花のような人がいる。それは、三年生で先輩の、雪村楓さんのことである。
 三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ってきたという、純粋培養の美少女さんだ。この楓先輩は、僕の意中の人である。彼女のためなら、火の中、水の中。いや、水はともかく、火は困る。でもまあ、そういったことを考えてしまうぐらい、楓先輩は素敵な人なのだ。

「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」

 間延びしたような声が聞こえてきて、僕は振り向いた。顔も可愛いが、声も可愛い。その声は、「穢れを知らない純潔の乙女」だけが出せるものだ。僕にはそれが分かる。ネットに巣くう有象無象の「声の達人」たちも、なぜだか、それが分かると主張している。

「どうしたんですか先輩? 何を知りたいんですか?」

 僕は知っている。先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の執筆活動のために必要な機材だったからだ。そして、先輩は、生まれて初めてネットに接続した。切っ掛けは、オンラインの辞書を利用するためだ。いつしか先輩は、ネットの言葉の海を泳ぎ始めることになった。活字マニアの先輩は、その文字の海に溺れた。そして現在、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。

賢者タイムという、謎の言葉をネットで見たの。みんな、それで話が通じているようなのだけど、私には意味が分からなくて。サカキくんなら、きっと知っていると思い、聞こうと思ったの」

 先輩は、僕の横にちょこんと座り、期待の眼差しで僕を見上げた。その目は、ハワイ島マウナケア山にある「すばる天文台」から見る、夜空の星のようにきらめいていた。

「あ、あの。け、賢者タイムですか?」

 僕はおそるおそる尋ねる。純真で可憐な先輩の口から出てよい言葉ではなかったからだ。

「ええ、賢者が賢い人だというのは分かるの。でも、そこにタイムが付いている理由が分からないの。字義の通り解釈しようとすると、人間が、ある時期だけ、賢い人間になるということよね。それは朝なのかしら、昼なのかしら、夜なのかしら。それとも、暦に連動して起きることなのかしら。私はそのことが分からなくて、悶々としていたの。サカキくんは、ネットが得意よね?」
「え、ええ。得意です。まあ、いわば、マエストロです。ファンタジスタでもいいですが」
「そのサカキくんなら、ネットで使われている賢者タイムという言葉の意味を、正確に教えてくれると思うの。期待してもいい?」

 僕はたじろぎながら、強張った笑みを浮かべる。無垢な先輩に、どうやって賢者タイムのことを教えればいいんだ。ここはスルーして、別の話題に移るべきだ。断じて、賢者タイムについて語ってはいけない。
 しかし、僕は楓先輩の目を見て、それができないことを悟る。餌を待つひな鳥のように、先輩は僕が差し出す知的な食料を飲み込もうとしている。そんな風に頼られて、欲しがっている知識を与えずに通り過ぎることができるだろうか。いやできない。

「先輩。賢者タイムを知るためには、人体の仕組み、いや、哺乳類の仕組みを理解する必要があります」
「人体、哺乳類。何だか、大変そうね。でも、大丈夫。私、真面目に勉強をしているから。学校で教えられている範囲のことは、きちんと全部把握していると思うから」

 学校で教えられている範囲。その言葉を聞いて、僕は顔を真っ赤に染める。それには保健体育も含まれている。先輩は、中学生の基本的知識として、人体の、いや男女の仕組みを知識として持っている。いや、女性は男性よりも発育が早い。小学校でも、男子より先に、詳しい話を教わっていると、聞いたことがある。
 ごくり。僕は喉を鳴らす。いやいや、先輩が、男性の性的な欲求と肉体の反応について理解していると考えるのは早計だ。知識として持っていても、実物を見ていないから想像が付かない。そういったことだってあり得る。僕はアメリカという国を知っているが、それがどんな国なのかは理解していない。それと同じで、男性の仕組みについて知識はあるけど、理解していない可能性だって充分あるのだ。

「哺乳類に、男性と女性の二つの性があることはご存じですか?」
「ええ。哺乳類だけでなく、爬虫類や魚類にもあるわね」
「まあ、それは置いておきましょう。そういった動物は、生殖行為によって子孫を残します。子供は成長して、再び新しい子供を作ります。そういった生物の循環は、ライフサイクルと呼ばれて、一つの時間の流れを作っています」
「サカキくん。何だか壮大な話になってきたね」

 先輩は、僕の言葉を聞き逃すまいとして、熱心に耳を傾ける。そのせいで、先輩と僕の距離は近くなる。そして僕の体に触れたセーラー服から、先輩の甘酸っぱい匂いが立ちのぼり、僕の鼻に届くようになる。
 駄目だ。生殖の話をしている時に、匂いだなんて。これは過激なフェロモン攻撃だ。僕は負けない。理性溢れる人間として、先輩との関係を維持するために、野獣になんてならないぞ。

「そういった生命の循環の中に、もう少し小さな時間の流れがあるのです。それは、雄と雌が生殖行動をする際の時間の推移です」

 男と女、そんな生々しいことはとても言えず、雄と雌という言葉で、僕は人類から距離を置こうとする。

「うん、雄と雌ね。その生殖行為ね」

 先輩は、僕の話を学術的な内容として熱心に聞く。

「さらに視点を小さい輪に移していきましょう。雄と雌のうち、雄だけに限定して説明をおこないます。雄は、雌を求めて繁殖行為をします。遺伝子を残すという意味で、雄にとって最もよい行為は、より多くの雌と交わり、子孫を残すことです。
 たとえば猿を思い浮かべてください。ボス猿は多くの雌と生殖行為をすることで、自分の遺伝子をたくさん残します。それは、よりよい遺伝子を後世に残すための、種による戦略でもあるわけです」
「うん。それで、賢者タイムは?」

 目をきらめかせながら先輩は言う。楓先輩の「賢者タイム」という台詞のせいで、僕が一生懸命積み上げてきた、「偉大なる生命の賛歌」という物語は、しゅわしゅわと小さくしぼんでいく。しかし、ここでへこたれては駄目だ。知的な後輩という部活内のポジションを維持するために、下品な方向に行かずに、賢者タイムを説明しなければならない。

「そういった、男性の戦略は人類にも受け継がれており、男性は女性を前にすると、より多くの子孫を残すために、繁殖行動におよぼうとします。それは、理性ではなく、本能にプログラミングされている行動です。しかし、その本能が役目を終えたあと、再び理性が戻ってくる瞬間があるのです。子孫を残すために本能に支配されていた脳が、今再び理性の領域に戻ってくるのです。この理性への回帰の時間のことを、ネットでは賢者タイムという名前で呼んでいるわけです」

 先輩は、真面目な顔をして、顎に指を当てる。その滑らかで艶やかな白い肌を見ながら、僕は先輩の様子を窺う。願わくば、僕のことを下ネタ好きの後輩ではなく、人類の生物学的な行動パターンに通じた知的な人間だと思って欲しい。
 しばらく、考え続けたあと、先輩はじわじわと顔を赤く染めた。

「ね、ねえ、サカキくん。それって、あの……」

 もじもじとしつつ、手をばたばたとさせながら、先輩は必死に、自分の頭に浮かんだ絵をかき消そうとする。

「何ですか先輩?」

 僕は、医者や学者のように真面目な顔で先輩に尋ねる。何もやましいことはありませんよ。僕は、いたって真面目ですよ。僕の表情から、そういったことを読み取ってくださいよ。そうアピールする。

「サカキくん。……それって、エッチのあとに、男の人は、そういった気持ちになるってこと?」

 顔を真っ赤に染め、体を小さく丸めながら、上目づかいで先輩は僕に尋ねてきた。ああ、僕の青春は終わった。きっとエロ下衆野郎として、先輩の記憶に僕のことは刻み込まれるのだろう。

「生物学的な話です。僕は、生物学に精通していますから。あと付け加えるならば、生殖行為のあとだけでなく、自己で完結する行為をしたあとも」
「……サカキくんのエッチ」

 先輩は眼鏡の奥の目を、じんわりと涙でにじませ、三つ編みの髪をゆらして、僕から少し距離を置く。先輩の匂いが遠ざかったことで、僕の頭は冷めてきた。僕は先輩に、とんでもなくエッチなことを話したような気になってきた。
 ああ、肉体的な放出がなくても、賢者タイムはやってくるのだ。そう考えている僕の手に、先輩はそっと、可愛い手の平を置いてきた。

「サカキくん。エッチなことばかり考えていたら駄目よ」

 先輩は、心の底から僕のことを心配している表情で告げる。

「はい」

 僕はそれしか言えなかった。それから数日間、文芸部の部室では、僕のあだ名は「賢者くん」になってしまった。それは僕にとって、納得のいかない結末だった。